失敗は成功の母というけれど、失敗をなんとかしないと、とすることが母なのではないだろうか。

書き方を変えて二日目でさっそく、躓いた。何か新しいことを始めることの喜びの一つは、失敗をするスピードが速いということである。その速さは遅さを求めている僕でも毛嫌いするものではなく、赤ん坊が泣いてしまうようなそんな微笑ましさを含んでいる。失敗はシンプルで、平日はふと思いついて、メモをする暇がなく書くことができない。つまり、書かずに書くということが難しい。

ただ平日は風呂掃除をしてお風呂を入れている間に、毎日10分意味もなく歩いているので、歩きながら思いついたことや、思いついていないことを書いたらいいか。特に大事なのは思いついていないことを書き溜めるということである。え、こんなこと考えていたのだろうか、とnoteを次の日に読み返して驚いた経験がある。そういう驚きのために書いているといっても過言ではない。

おしゃれについて考えているし、自分はおしゃれになりたいと腹の底から思っている。ふざけているようだけれど、最近の僕の行動基準は良さとか、美しさとかではなく、おしゃれである。その方が活力がみなぎり、偏りのバランスを正せそうな気がしている。活力がまったくない状態はおよそおしゃれとはほど遠く、何かにのめりこんでいる姿は美しいかもしれないけれど、おしゃれではない。おしゃれには余力というか余白というかそういう余りが必要なのだろう。

そんなことをスマホでしたためながら、気まぐれにいつもと違う道を通っただけで、一瞬ここがどこかわからなくなる。自分の存在のちっぽけさを知る。僕が僕であるために、勝ち続けなければならないのではなく、勝ったところで僕自身が変化していく。その変化を記述して後から自分を物語っていく。自己認識というのは身体に先行するものではない。ただ、自分がこうしたいという夢や希望のようなものをもって現在の身体に何かしらアプローチをすることは可能か。ただ、それは自己認識ではないな、と思い直す。

またカードゲームをはじめようとしている。ただ、なぜ男性が多いのだろう。単純な疑問である。将棋だってそうか。男性プレイヤーが多い。どうしてだろうか。抽象的すぎるのか?あまりしっくり来ていない。女性だってやってみたら楽しいと思えるはずである。逆に男性が少ない趣味的なものもやってみようかしら。

暖かくなってきて、虫が鳴いている。
僕の文章に足りないのは、音なのかもしれない。リズムについても考えている。
音が聞こえるような、文章を書きたい。

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