日記0630

歌を歌うのが結構好きで、小学校の時とか熱唱するタイプ男子だった。
クラスメイトから一目置かれている感じがあって、それも嫌いじゃなかった。まぁ今にして思うとそれは、一目置かれているというよりは距離を取られているようなものであって、そこまで誇られるようなものではないのだけれど。

仕事場でもたまに歌っていて、音痴であるとよく言われる。少しまで、それこそ学生の時だったら気にしていたかもしれない。最近はあまり何も思わない。

会話についてもそうで、昔はうけたいとか、笑ってほしいとかを結構本気で考えていて、自分なりに全力で話をしていた。雑談放送なんてものに身をささげていた時もおそらく原動力はそれであった。
しかし最近はあまりうけたいと思わない。いや、確かにうけたいという気持ち自体は死んでないけれど、すべってもいいかと結構簡単に考えている。

少し前、自分がもう少し賢かった時、大学入学前後は、自分はもう少し物事を真剣に考えていた。
しかし、真剣に考えれば考えるほど、真剣に考えない方がいいという結論に至った。というより結局なんやかんや僕の脳みその中でこねくり回したとしても、人ひとり救えないし、自分もちょっと疲れるだけなんだなと思えた。
自分の考えの正しさを証明するか、秘匿しておくかの違いは大きい。
証明するのであれば自分の脳みその中からどのような手段であれ提出しなければならない。
秘匿しておくとすれば、自分の正しさというものの存在意義を疑うタイミングが早晩訪れる。
そう考えてみると、正しさというものに少しでも気がかりを覚えるのであれば、もう自分の中にこもっている必要性はない。必要性がないからといってやってはいけないわけではもちろんない。
しかし、である。

可能性の塊でその可能性をなんとかしたらいい、というよくある話をするつもりはない。
むしろその逆で、必要性について考えてしまう時点で君は物事に対して向き合う気持ちが十二分に備わっており、何も問題はないということを強く言いたい。

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