さっぱりしたエッセーを書こうとおもってはいるんですけど、枠理論。

僕は大学に入る前、人生の意味について知りたかった。
そのために、ひとまず大学に行って勉強しようかと思った。
存在論という学問体系があることを知って、ハイデッガーという哲学者(こいつはハゲで不倫しててナチスに一時期加担したいたというナイスガイなのだが)を知って、存在と時間という本に挑んで挫折したりした。
卒業する際に、当然のように卒業論文を書くことを求められたので、僕は当然のように存在論にしようかと思ったけれど、暗中模索した。
哲学で大学院に行くということを本気で考えたりもした。特に何も決まっていなかった。哲学担当の教授数名に面談をしてもらった。渋い顔をしていたので僕も負けじと渋い顔をした。
一応教職の授業を取ったときに、ケアということを知って、ケアが一つの僕の軸になった。いや、今もなっている。メイヤロフにたどり着くのは少し遅れた。ケアから身体論につながりそうでつながっていないような日々を過ごしている。

最近はそれとは別というか、もっと根本的に枠理論(仮)というものを考えている。
人と人の間について、木村敏があれこれ書いていたという話をなんとなく聞いたり、分人という考え方はあんまり好きじゃないなぁと思ったりしていた。

枠理論(仮)というのは、人の関係性や、物事というのはある一つの枠の中で行われる、ということである。僕もまだ何もわかっていない。
例えば家族という枠組みや食事するという時間の区切りのようなもの。
シングルタスクというわけでもない。本を読むときの本の中の知識の枠組みといいうもの。
『難解な本を読む技術』という本を読んでいて、思った。
僕は知識や思考というものが枠組みがなく漂っていたり、身体的な感覚、運、アドリブのようなものでごまかしてしまいとしてしまっている。
簡単に言うと整理という概念がない。しかし、存在している物事すべては、ある枠組みが前提とされている。存在を可能とする前提。それは名付けられること以前にあるのかどうか今はわからない。
僕がこうやってnoteを書いているのも、noteの枠組みがあり、その中身を入れているだけにすぎない。

この枠組み理論としばらく付き合っていくことになる。手始めに、積読の山に対して、その視座を用いてみようと思う。

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