悪いところどりをしてしまう人生。

エクリチュールとパロールについて考えている。
現代思想入門を再読しながら。
ラインの文言は確かにエクリチュールなのだけれど、あまりにも流れるのが早い。その意味ではパロール側なのかもしれない。旧ツイッター現Xもそうだなぁと思う。

直接話をするのが一番だと感じる。
何が一番かというと理解し合えるというか、納得し合えるような感じがある。ということはつまり、お互いの選択肢というか想像力というか余白みたいなものが、リアルでの会話では得られないということでもある。
エクリチュールは余白だらけで脱線だらけ、かっこよく言うと誤配だらけで喧嘩別れになることもあるかもしれない。
ただ、パロール的であるはずのラインはその展開が早すぎて一つの話に収斂することが難しいんじゃないだろうか。
実際の会話は本当に脱線するしわけわからないことを行ってしまう。けれどお互いに経験というか雰囲気のようなものが共有されて(時間的な?)その経験が和やかな雰囲気を生み出そうとしてくれる。5分前に話したことを人間は覚えていられない。これはとてもいいことだと思う。
ただ、ラインやXの場合はそれは当たり前だけれどエクリチュールなので、5分前の暴言が5分前の暴言として残っている。そうすると、誤配が起きにくい。ぶつ切りのエクリチュールなのであればまだ文脈から解放されているので、誤読の可能性もある。だけれど、やり合ってしまうラインやXの場合はプラスの誤配が起きることは少ない。むしろネガティブな誤配が発生しつづけてしまう。そしてそれを忘れることができない。消すことしかできない。

訂正可能性の哲学を読んだときに思ったけれど、ラインやXで喧嘩をした場合どうすればいいのだろうか、というと、もうそれらと距離を取るということがある種の正解なんじゃないか、と思う。
その中で訂正を頑張りすぎることは結構難しい。関わり合いに慣れない人もいる。
実際に会って口喧嘩をすることは、先ほど述べたように5分したら忘れてしまうということもそうだけれど、その場限りの喧嘩であるというメリットもある。ラインやXの場合、よほどの田舎に行かない限り僕たちはインターネットの波にさらされてしまう。
いよいよスマホの使用を制限しようかなと思う。別にもめているわけでもないし、もめることは好きなのだけれど、作ることについて考えたいなと思っている。

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