シンゴ

戦後の地域映画館の研究を続ける者。都市社会学、メディア社会学、文化社会学に関心あり。 …

シンゴ

戦後の地域映画館の研究を続ける者。都市社会学、メディア社会学、文化社会学に関心あり。 映画の他、戦後の流行歌、90年代以降の小劇団演劇、ラジオ、書店、喫茶店、18きっぷを使った旅が好き。余命は限られてるが、今からでもラジオのナレーション、朗読などやってみたい。

最近の記事

私と、あの日の映画館⑦ TTCと戎橋劇場(2011.10記)

 昭和54年、同世代が大学を卒業し社会人1年目を迎えていた頃、TTC(テレビタレントセンター)に入った。電通や博報堂、関西の民放4局が共同運営していた放送タレントの養成校である。  テレビが興隆期を迎えていた昭和30年代半ば、放送局のアナウンサーでフォローできない仕事、例えば生CM(ワイドショーのCMは今の通販番組のような感じで商品を紹介していた)、ナレーション(天気予報やミニ番組)、番組アシスタント等々を担当する者はすぐにどこかで見つけられるような環境ではなく、独自に育成

    • 私と、あの日の映画館⑥ 職場ご近所の扇町ミュージアムスクエア(2011.11記)

       1986年7月、5年近く勤めた広告会社を辞めた。翌8月からの勤務先は社会医療法人の事務本部。場所は大阪・梅田の兎我野町にあるビルで、向かいに名刹・大融寺があった。しかし、それ以外周囲の建物で目立つのはラブホか風俗店の入ったビル。1977年に事務所を借りる際、梅田で一番安いビルを探してここにたどり着いたらしい。静かな夜は隣接するホテルの音が聴こえてきたし、「お姉さん紹介してくれる?」と電話がかかってきたこともあったし、道を行き来する客引きの方々と顔馴染になるし、忘れ難い体験が

      • 私と、あの日の映画館⑤ 映画祭が似合う祇園会館(2011.6記)

         今朝知ったのだが、京都の祇園会館が土日に吉本のお笑い公演を行っている。“映画館が休日の上映を捨てたってどういうことだ!?”と調べてみると、7月から「よしもと祇園花月」をオープンさせるにあたって現在はプレ興行中らしい。はやい話が祇園会館は吉本に奪われたのだ。平日の2本立て上映は続くらしいので、かろうじて映画館の体(たい)は残ったといえるが、祝日も吉本興業の公演が入っている。おそらく盆休みもそうなるだろう。平日休みをとらない限り、もうここで映画を観ることはできない。  繁華街

        • 私と、あの日の映画館④ アート系作品の拠点だった三番街シネマ 後編(2011.6記)

           大阪のミニシアターの老舗、といえば北浜にあった三越劇場や日本橋の国名小劇あたりを思い浮かべる人も多いだろうが、記念碑的作品を最初に公開し、アート系のムーブメントに火付けしたのは東宝グループ系列のコマ・ゴールド(1992年閉館。旧梅田コマ劇場地下。今は影も形もない)と三番街シネマ2だと思う。  前者は『ニューシネマパラダイス』を上映した。この作品は1989年、勤務先法人の病院のナースと一緒に観にいった。感動した彼女は翌日から病棟で作品の素晴らしさを広め、「9人のナースが観に

        私と、あの日の映画館⑦ TTCと戎橋劇場(2011.10記)

        • 私と、あの日の映画館⑥ 職場ご近所の扇町ミュージアムスクエア(2011.11記)

        • 私と、あの日の映画館⑤ 映画祭が似合う祇園会館(2011.6記)

        • 私と、あの日の映画館④ アート系作品の拠点だった三番街シネマ 後編(2011.6記)

          私と、あの日の映画館③欽ちゃんと出会った三番街シネマ(2010.6記)

           「平成2年ってバブル期?」「1990年だから、そうでしょう」 仕事中、業務上の確認のためか部長が質問してきて、それに答えた私。 「あの頃はホンマにもう贅沢に遊んで遊んで…広瀬香美…広瀬香美っ!…」パソコンを見つめながら独り言のようにつぶやく部長。きっとスキー場での密かで楽しい出来事を思い出していたのだろう。  それを聞きながら21年前を振り返る。限られた収入で家族3人生活していたからバブルは別の世界の話だった…とは言っても日々行きかえりする街は、若い人に向けたショップ

          私と、あの日の映画館③欽ちゃんと出会った三番街シネマ(2010.6記)

          私と、あの日の映画館② 講堂映画館(2010.9記)

          5日前からだ。昼飯でビルの外に出ると、かならず小学生の集団に出くわす。ホテル阪急インターナショナル前の歩道、かっぱ横丁に沿った道路、MBS前の空き地…皆、先生に引率された4、5年生ぐらいで、30~100人ぐらいが束になっている。昨日なんか勤務先の隣の公園でシートを広げて弁当を食べていた。遠足かぁ?梅田のどこへ行くんだ?  そしたら今日は梅田芸術劇場からゾロゾロ何百人も吐き出されるように出てくる子どもたちと遭遇。入り口の立て看板を見たら「子どもミュージカル・嵐の中の子ど

          私と、あの日の映画館② 講堂映画館(2010.9記)

          私と、あの日の映画館① 村上春樹が通った「芦屋会館」(2011.6記)

           先日、紫綬褒章を受章した柄本明さんが読売新聞(6月15日)のインタビューで“映画好きの両親の影響で小学1年の頃から1人で映画館に通った”と語っていた。『星守る犬』公開に合わせ日刊スポーツ(6月12日)でクローズアップされた西田敏行さんも子どもの頃、毎週のように両親に連れられて映画館に通った話を披露している。  「幼い頃、映画館通いは生活の一部だった」という話は、60代以上の人の語り草として珍しくない。この世代の人をかき集めて、子どもの頃の映画館のことを話せと言ったら、たち

          私と、あの日の映画館① 村上春樹が通った「芦屋会館」(2011.6記)