「彼女が死のうと思ったのは」第8話 #創作大賞

お父さんに久しぶりに会ったのは、4月の終わりのことだった。両親の離婚から、5年が経っていた。奢ってやるからと、外れの喫茶店まで連れて行ってくれて、そこで色々な話をした。

父は私たちの学校生活や、家での話を聞きたがった。学校では文芸部に入って楽しい日々を送っているということや、テストで学年トップをとった話をした。日傘の話もした。部活の同級生と仲良く喧嘩したり、小説をお勧めし合ったりしていることを話した。父は嬉しそうに話を聞いてくれた。

今度は、私が父のことについて質問した。父は今、隣の市に住んでいて、まだ小説を書いているらしい。私は父の小説が好きだったので、書き続けてくれているのは嬉しかった。前契約していた出版社からは、契約を切られていたけれど、別に本を出してくれる出版社が見つかったから、新作が出るのだと言っていた。

帰るのが遅くなると日傘に怪しまれるからと、日が高いうちに家の近くまで送ってもらった。またそのうち会う約束をした。家族には内緒にしてほしいと頼まれて、了解した。確かに、お母さんにバレたら怒られそうだし。

お父さんとは週に1回くらい会うようになっていた。書いた小説を見せると、嬉しそうに読んでくれた。私はお父さんの小説を見て、書き始めたから私たちの文体はよく似ている。お父さんと話すのは楽しかった。お父さんも純粋に楽しんでくれていたように思う。

それが崩れたのは、何気なく家のことを話していた時だった。今は日傘が料理を作ってくれているということを話すと、食べてみたいな、と笑う。私は家の会計を任されているということをこぼした。お母さんは仕事ばかりで、家にほとんどいないから少し不満が溜まっていたので、ちょっと愚痴るだけのつもりだった。お父さんが急に真顔になったから、何かまずいことを言ったかもと思い、話題を変えた。
その日はそれ以降、お父さんはその話題に触れてはこなかった。

それからも一週間に一回くらいの頻度でお父さんと会って話した。いつの間にか、7月に入っていた。

いつも通りに喫茶店に移動した後、いつも通りに話をした。もう蝉の声が聞こえるようになっていて、店内は涼しいが、外のアスファルトには陽炎が揺らめいていて、見ているだけで暑い。私に二杯目のコーヒーを頼ませると、お父さんは「金を貸してくれないか」と言った。時が止まったような気がしたけど、お父さんの頬には汗が流れていた。何も言わない私をまっすぐ見ている。

「前に小説の契約をしてくれるところがあるって話をしてたよな?その契約料が来月入る予定なんだが、今、生活費がギリギリでな。来月にはすぐ返すから」

 不器用に作る笑顔が歪で、小さく見えた。クーラーのせいで指先が冷たい。

「ああ、もちろんすぐにじゃなくていい。額もそんなにいらないし、ちょっと今苦しいから援助してくれって話だ」

 慌てたように付け足して、手を横に振る。

「どのくらい必要なの?」
「1万、いや2万くらい借りたい。どのみち来月には返すから」

お母さんには、お父さんと会っていることは伝えていない。もし言えばすぐにでも止められてしまうだろう。お母さんは小説をほとんど読まないから、小説の話をすることはできないし、そもそも家に帰ってきてもすぐに寝てしまうから、話すこともあまりできない。だから、私にとってこの時間は大切で、失いたくなかった。

会計を担当しているとは言ったけど、実際、通帳からお金を出し入れするのは母の役割だ。私は1か月ごとに母から預かったお金を使って、家計をやりくりする。余った分は日傘と分けていいと言われていたが、母は念のためにと多めにお金を引き出してくるので、高校生の小遣いにするには少し多く、来月に繰り越していることが多かった。そのため、2万円くらいなら、すぐに出せる状態だった。来月に返してもらえるなら、特に問題はない。

「分かった。じゃあ、来週持ってくるから、ちゃんと返してね」
「すまないな。小雨」

 そのあとは、また文芸部の話をした。文化祭に向けて部誌を作るため、日傘が燃えているという話をした。お父さんは笑って話を聞いてくれる。
 その日の会計は、お父さんが払った。

 7月2週目。喫茶店で私は封筒に入れたお金を渡す。お母さんや日傘に対する罪悪感が胸をつついたけど、ちゃんと返してもらえるなら、2人に迷惑はかからない。それに2万円くらいなら、最悪、私の小遣いから出してもいい。小遣い分は日傘と同額だったけど、散在しがちな日傘と違って、私は特に使いたいものもなかったので、お小遣い分だけでもそれなりの金額があった。だから大丈夫と自分に言い聞かせる。大げさに頭を下げるお父さんを見るのが嫌で、話題を変えた。
 その日の会計はお父さんが払った。

7月3周目。学校は夏休みに入る直前だった。受験の時期は近づいてきていたけど、今の志望校なら余裕でいけると先生が言っていた。もう少し志望校のランクをあげないかと言われたけど、文学部がある大学ならどこでも構わなかったので、やんわりと却下した。お母さんは、やりたいことが明確ならそれでいいと賛同してくれていた。
 いつもの喫茶店でお父さんと話す。ミステリ作家になりたいと話すと、俺の遺伝子かな、と誇らしげに笑う。ひとしきり話した後、席を立つ。小雨、とお父さんが名前を呼ぶ。

「どうしたの?」
「すまんが、また少しお金を貸してくれないか」

傾いた夕日が逆光になって、表情は見えづらい。いくら?と私は聞く。
今日の会計は私が払った。

7月4週目。夏休みに入った。お母さんは相変わらず忙しいみたいだったけど、前よりは家にいる時間が増えた。いつもはそっけなく思えたけれど、家にいる間はやはり優しいし、色々気にかけてくれる。罪悪感は質量を増していくけれど、私には返済を待つ以外にない。お母さんの信用を失うのは嫌だった。

いつもは学校から少し歩いたところで待ち合わせしていたが、家の近くに場所を変えた。そうはいっても、お母さんにバレるわけにはいかなかったので、少し遠い場所にしていた。その日は文化祭で出すために書いている小説について、お父さんにアドバイスをもらった。アドバイスを取り入れると、明らかに内容が一段階面白くなった。また教えてもらう約束を取り付け、その日は解散した。
 その日の会計はお父さんが払った。

8月1週目。顧問が忙しく、学校の部室があまり使えないらしい。日傘に言うと、ウチでやればいいじゃんと提案されたので、私の部屋で部活をすることになった。模試や課外授業の日も多かったけど、充実していた。
喫茶店でまた小説にアドバイスをもらった。お金の話はしなかった。
その日の会計はお父さんが払った。

8月2週目。そろそろ契約料は入ったのかと、お父さんに聞いてみた。まだ時間がかかりそうだとお父さんは言う。お金が入ったらこっちから伝えると言われた。小説へのアドバイスは続けてくれたが、今日は少し不機嫌だった。早めに切り上げて家に帰った。今が一番ギリギリだと言われたので、その日の会計は私が払った。

8月の3周目。今週は忙しくて会えないと連絡がきた。勉強と部活を頑張ることにする。

8月の4週目。
こちらから何度か連絡して、会う日が決まった。喫茶店のいつもの席に座る。

「そろそろお金、返してほしいんだけど」

 お父さんは黙ってコーヒーを啜る。

「8月には返すって言ったよね?早く戻さないとお母さんにバレるかもしれない」
「それはお前の都合だろ」

 お父さんはため息をつくと吐き捨てるように言った。全部を諦めたような表情で、うっすらと笑みを浮かべていた。

「契約料の話は嘘だし、借りたお金はもう使ってしまった。俺は今やっすい賃貸でバイトしながら食いつないでる。こんなやつからまだ金を搾り取る気か?」
「……最悪」
「なんとでも言えよ。俺はもうお前らにどう思われようが構わない。聞いたところ、金にはまだ余裕がありそうじゃないか。もう少し回してくれよ。小説が一発当たれば、数倍にして返してやるからさ」

表情は醜く歪んでいた。昔とまるで違う生き物みたいだった。
これ以上、話したくなかった。悔しくて、涙が溢れそうになるけれど、負けたみたいでいやだったから、なんとかこらえた。

「もう、お父さんとは会わない」
「そうか。じゃあもうお別れだな。ああ、小百合はこのことを知らないんだっけ。最後に教えといてやろうかな」
「それだけはやめて」

お母さんにだけは知られたくなかった。こんなことをしておいて都合がいいのは分かってるけど。それでも、いつもまっすぐで正しいあの人に、失望されたら私は生きていけない。

「じゃあ、分かってるだろ。隠し通すしかない。俺たちはもう共犯なんだ」

私は頷くしかできない。私はこの人ともう同類なんだと、今さら気付く。ごめんなさい。

9月に入って、学校が始まった。お母さんはまた忙しくなって、家に帰ってくるのは23時を超えてからだ。私はその日、偶然、夜中に目が覚めた。スマホを見ると、2時半だった。起こさないようにこっそり階段を降りて、水を飲むためキッチンに向かおうとしたとき、リビングの電気が点いているのが見えた。ドアは半開きで中が見える。

お母さんが机に伏して寝ていた。通帳が近くにあった。多分、額を確認していたのだ。私は水を飲むのをやめて、自分の部屋に戻る。朝が来るのが怖かった。いっそこのまま目が覚めなければいいのに。

それから何度か顔を合わせたけれど、お母さんは何も言ってこなかった。絶対気付いているはずなのに、それから数日経っても何も言わない。いつもより優しく聞こえる声も、視線も、全部苦しい。妹の無邪気な声も、雲一つない晴天も、元気がないと心配してくれる友人も、全部、自分にはふさわしくない。

私は罪人です。ごめんなさい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?