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この世に生を受ける

この世に生を受けたこと。それは感謝すべきことであるが、果たして本当に良かったのか、という疑問も残る。

「よくある町」

九州の暖かい気候に恵まれた町に生まれた。少し悲しげだが激しく波打つ美しい海と悠々不動の山に囲まれ、田んぼがつらなる地域。少し車を走らせれば衣料品や食料品がそろうビルやコンビニがあり、大きな川を隔てたその先には駅前の栄えた街が広がり、大人たちが夜ごと足を運ぶ呑み屋街があった。大きな病院や、敷地内が様々な植物で徹底的に整えられた県庁があり、手付かずの自然と人が作った街がなんとか共存しているどこにでもある田舎町だった。

「家」

九州電力に勤めていた祖父と生まれてから一度も働いたことのない専業主婦の祖母、サラリーマンの父とパートの母、そんな家庭に生を授かった。1988年のこと。
3つ年の離れた兄、年子の姉、その下に3人目として生まれる。
この頃はまだ「長男を生む」という嫁の責務があった時代だったのだろう。1人目で長男を生めた母は安堵していたに違いない。そして次に女児が生まれ、この時点で「男」と「女」を獲得できたことに満足していたように思う。

「教育と人格」

両親の口癖は少しずつ深く自身に刻まれ、その後の人格を形成する上で少なからず影響を与える。日々の暮らしの中で見る親の行動やこぼれ出た口癖は、子どもの小さな世界では大きな比重を占めるからだ。

レイプで子供ができたとしても、下すことは許さない。
幼少期に何度も耳にした口癖の中で一番、理解できない。という反応を示した言葉かもしれない。しかし、理解できない反面、衝撃が心に強く残る言葉であった。この言葉の背景を幼少期からずっと考えてきたが、答えにたどり着くことはなかった。

「小学校の課題」

小学3年生のとき。学校の授業である課題が出された。
それは「自分の名前の由来を調べてきなさい」というものだった。
家に帰り母にたずねた。「私の名前ってどうやって付けられたの?どんな意味があるの?」と。すると母はこう答えた。
「あなたはお母さんとお父さんが好きだった歌手の名前をつけたの」と。
意味が分からなかった。
親の名前から一文字とってつけられる世襲のような名前や、漢字の意味をつなぎあわせて願いを込められる名前があることは、幼ながらも理解していた。当然のように自分の名前、使われる漢字にもなにか意味があるんだろう、そう思っていた。その上で母の返しは予想だにしなかった答えだったため、幼さという未熟な心に衝撃と不快感が走った。
誰かの名前を借りてそのままつけるなんて。そこに自分なりの想いや願いはなかったのか。
兄と姉には祖父母の名前から一文字とって名前がつけられていたこともあり、「私は望まれて生まれてきたのではない」という疑念が頭から離れなくなった。それから20年以上疑念が晴れる事はなかった。

「4人目の子」

祖父の体調が思わしくなく、いつ危篤になってもおかしくない、という連絡が入った。実家に顔を見せに行くことになる。2019年のこと。
優しさと厳格さを併せ持つ頑固な祖父。ひたすらに病院での治療を拒みつづける。理由を尋ねてみると、友人や周りが幾度となく病院での治療を機に亡くなったことらしい。経験がその気持ちを生んだのであれば分からなくもない。そっとしておくことにする。
久しぶりに戻った実家の雰囲気や窓から流れてくるそよ風を、目を開けて肌で感じる景色として楽しんでいた。「お茶飲む?」という母らしい声かけに反応し、少し心が躍っていたのかもしれない。
二つの湯飲みに注がれたお茶を飲みながら、久しく交わしていない母と娘の会話を楽しむ。そんな時母が言った。
「実は、4人目に授かった子供がいたの。あなたが2歳くらいだったかしら。」
「お金もなくて子供も3人いて、金銭的にも体力的にももう育てられないと思った。そしてお父さんと相談して仕方なく下したの。」
「するとある晩、あなたがお母さんにこう言ってきたの。」「バイバイだって。サヨナラだって。あのこがそういってたよ。」って。

私をもし流産していたら、4人目の子は生まれてくることができた。そういった考えが頭を過ぎって離れない。
4人目の子が生まれていたら。私よりも素晴らしい人生を謳歌して、周りから愛され、沢山の友達ができ、充実した毎日をいまでも歩めたかもしれない。自分をぞんざいに扱うことで否定と戒めと肯定を繰り返してきた。そんな人生を歩んできた自分を、恥ずかしいと思った。

生まれるってなんだろう。生まれたことの責務ってあるのではないか。
その責務ってなんだろう。その答えを探すことはあまりにも大きく抽象的であり、つかみどころの無さは一生の難題となるかもしれない。
人は生まれて数年で学問を学びはじめ、人類がそれまでに発見してきた数々の功績や偉業を学校という場で知り、同級生や先生と過ごした日々が経験となり、社会に出るとさらに視野を広げて経験を積み、学ぶという終わりなき道を進み続ける。
しかし、自分の責務を考える、ということだけでも一歩の歩みと捉え、僅かながらの弔いとなれば、、
そう願わずにはいられない。