気づく、というお話。
目で見るだけでも、気づく。
気づくとはいえ、気づき過ぎてるというか。
自分も同じ!と主張した他者が、後で裏切るかのように「ありえない」と。
同じかどうか実験も比較もしてないのに、自分の方からすり寄ってきといて、それは無いわー・・・。ということすら、割りと日常と言うほどに、集団生活の中では時折目立ってた。
まぁ、気づくって言っても、ね。
何がどうあって、どうあるという部分の範囲が人それぞれ。意外と違うものなんですよ。
なのでこう、「またかよ・・・」という、同じだ、ありえないだが発生するんですよね。
この辺、結構大変だし、面倒くさいんですよ。
ありえない=私のほうが過ぎてたと気づく=同じだと思ってたのに、というね。
こっちは前もって「同じなんてありえない。体が違う個人なのに」と注意というか、そういう前置きはするのに、聞きやしないんですから。
ただただ気づくと言ったところで
目に映ったものから、”相手の行動を予測した上での先手をうつ”。
気づくとはいえ、読みの部分まで及んでるんですよ。
そして、だからこそ、町中を一緒に歩こうものなら、
「歩くの早いのに、何でそんなに上手いこと人を避けれるのか?」
目に映らなくても、音や気配で、ある程度気づいてしまってるので、それをもって目線を合わせに行く。
そこから更に踏み込んで気づく。
なので、避けるのも容易と説明したところで、「おかしい、ありえない」。
うん。
たかだか、歩くにしても、ね。
人間って意外と心理的な動きって、視線、動作、表情に漏れてるんですよ。こういうのもおかしいって言われるのですが、その場で簡単に合理的に話すと「なるほど・・・」と納得をもって再度、
「おかしい、ありえない。」
もうわかったからぁ!!
これを書く少し前も、銀行その他に用事があったので出かけてましたが。
いやもう、自動ドアなんてね。ガラス張りだから対面に人が来てるの気づけそうなのに。中心よりこちら寄りを突っ切ってくるから、先んじて立ち止まって回避とかしてて。
結構、ため息出てました。ふぅ。
そうしないと、ギリギリ出口にぶつかる勢いだったので。
危険回避するでしょ?なんですよね。
気づく、それが過ぎる、その実態。
ホントもう、馬鹿馬鹿しい、と。
言いたくもなるんですよね。
駐車場なんかでも、急いでるとか、我先にとか、そういう心理が働いてる分、注意が配れてない。
歩きスマホとかも、ね。自分は歩行者だからみたいな心理が働いてるんじゃない?ってほどに、車が行き交ってるのに合理的配慮というのが出来てないというか。
ちょっと顔を上げればウィンカーを出して車が待ってる。
ということに気づけそうなのに、気付け無いまま、空きスペースの手前で好き勝手やってる、というのもよく目にします。
いちいち細かいことにうるさい。
というのも分かりますが、こちらはもう気づいてる=把握してる、ということが殆どだったりします。
なので、気づく側からすると、注意欠陥とか、自分の興味ばかりに気が行き過ぎとか、ホントこう、ね?
そういう話にもなるんです、よ。
個人として、教え上手だなんて言われてたのも、幼い頃からの気付きやそこからの把握から、聞き出す、問いかけるで相手に確認して、行動する。そして必要であれば、教える、手伝うというフォローをする、と。
幼稚園時点で、既にそういうのが芽吹いてただけでなく、教えられなくても出来てたこと、なのでね。
面倒見が良いとはいえ、目で見るだけでも、色々気付きすぎるからこそ、色々把握できてた。そういう部分を自然とでも活かしてたからこその、行動と評価だったりします。
そこが悪い方に行くと大人の図星を突くことになる、と。とはいえ、それはこう、ね。私からすれば、大人の方が出来てないじゃん・・・だったりもします。
こんな感じなので、相手と接し無くても、すれ違うだけで目が情報を受け取りすぎてるんですよ。
だからこそ、先んじて回避も出来る。
気付きすぎる=下手するとすれ違いざまでも、相手の状態や心理の把握もしかねない。そんなレベルにあったりするし、それが当たり前とか、普通に出来てしまってる。
そこには、外出=人の往来で、少なからずの接点が生じる、そういう環境になるという形での影響とも言える。
そーんな感じです。
例えば子供を見てても
同じ様な年齢層、という見た目での括りであっても、子供でも相当に違います。
ただただ言うことを聞いてるようで、気づいてるからなのか、手のかからない行動をしてる子。
お店とかだと、物がある=興味を惹くからなのか、中々言うことを聞かず手がかかってる子。
ホントこう、色んなお子さんが居るのですよ。
発達障害という症状は、ある程度幼い年令でないと、というのも、頷けるとでも言えば良いのか。年齢だけでなくある程度の幅を持たせても、ヤッパリ子供でも違いが出てるんですよね。
ただ、ここには親は親としての心理があるので、言うことを聞かない、手がかかるというのは、親にとっては負担やストレスにもなる。
そう思います。
うちの場合も、私と弟を比較するとホントこう、陰と陽。弟は手がかかるというか、結構ワガママが強かったのですが、どちらかというと・・・
目線合わせてないから、弟の興味も注意も引けてない。
結構、酷い言い方かもしれないですが、弟の面倒をよく見れてるというのも、そういう気付きがあるからだったりもします。
なので、私が介入するときは、
「ちゃんとこっち見て」と。
目線を合わせて、こっち見ろし!と、やってたから上手く扱えてた、というのは否めないのですが、こういう部分は母も弟も覚えてないんですよ(苦笑
だから、どっちにしても、成長してから子供の頃の話が出てしまうと、私から痛い所を突かれてしまいもする事に。
まぁ、ホント食い意地は筋金入りというか。おやつで結構ごねる子で。
泣いて座り込む、なんてこともしょっちゅうありました。
そこを、怒ってその場で軽いお仕置きと言うかたちで、置いていくという行動を母がしてたのですが、そうすると母と離れるのを嫌がるというのも強かった弟は余計に悪化しかねない。
でも、それを大人しくさせた上で、連れて行ってた。そんな感じなんです。
夜なんかも、寝かしつけたあとで、母が居ないと大変でしたしね。
仲の良かったお母さん同士、子供は寝たからと出かけて話したりしてたのですが、トイレとかで目をさますと、ホントこう泣きわめくんですよ。
まぁ、出かけるとはいえ、当時はまだ昭和。どちらかの家で、という感じなので、探して連絡を取り付けるのも容易でした。
うん。
とはいえ、弟の方は、言われれば頭の中で整理できるけど、母が居ない=自分の希望がかなわない、事が弟にとってはその当時は重要だったので。
当時の私が取れる行動をとって落ち着かせてたわけですが、今となってはまだやりようがあった、と。
成長したからこそ、自分もまだまだ当時は子供だった、という部分が見えます。
なので、よく出来たお兄ちゃん扱いされても、「いや、出来ることやってただけだし」にもなってしまいもする。
ホントこう、気づくという部分は、今現在とか、目の前だけでなく、過去であっても気づくことって多くなります。
なので、「よく出来た」という評価をするくらいだと、追いつけない、成長すれば更に先を行く、という、ね。
面倒くささもあるにはあります。
と、自分の経験を出してみましたが、いくら兄弟とはいえ、泣いてごねる弟を怒らずに落ち着かせて、連れて行ったり、安心させて再度寝かしつけたりと。
気づく、という言葉に集約させても、細かい所まで話し出すと「アンタ本当によく気づいてんのね」にもなるんですよ。
蓋をあけると、気づく=相手側の少なからずの心理も読み取る、という部分は無きにしもあらず。
それは、子供。まだ年齢1桁であっても、パッと見以上に頭の中では整理もしてたりします。
そういう踏み込んだ部分に、気づいてほしいかなぁ、と。
思うんですよ、ね。
母にしても、弟にしても、お互いがお互いもう少しこう・・・という部分が多いですし、そういう部分が成長に合わせて、
「考え方が大人、行動が大人っぽい」
大人じゃねぇ、子供だし、自分は自分だから気づいてるだけ。
こうなってしまうんですよ。
思いの吐露
正直こう、ね。
HSPのDOESだという話になると、こうまとまるのも、ある意味当然というか。なんと言えば良いのか。
認知的処理の深さという部分では、臨床心理士の先生によるカウンセリングでも「現実を深いところで」と。
おおよその人より、目で見る、耳で聞くだけでも、細かい所まで行ってる=音やにおいなら、周囲に同程度に気づける人が居ない程。
だからこそ、現実に対して周囲以上に、気付きやすい、状況を把握してる状態になります。
刺激の圧倒されやすさ、も、ね。
においも音も、においの成分や大気に伝わる振動という、刺激だったりもします。
そういう刺激が細かい=小さすぎて周囲には拾えないレベルですら、拾えてしまいますし、そういう細かい物であっても、相当に刺激を受けてるかのように「うっ!!」となる素振りを見せます。
そこを、ね。
ありえない、と言われるんですよ。周囲には感じ取れてないレベル、それ程に小さいのに、周囲と同程度で反応した状態を見せる事になるので。
情動的な反応や共感というのも、ね。
それこそ相談上手の話ではないですが、見る、聞くから相手の心理、思考をなんとなく把握するだけでなく、多分とか、おそらくとか前置きしても、一致しすぎてて驚かれる。
その場に居ない第三者であっても、頭に湧いたイメージからそういう部分を拾って、”一致してることに驚かれる”というレベルだったりします。
集中してようが、背後だろうが、視界の外だろうが拾うこともあるので、「お前はエスパーか何かか?」とか言われもするくらい。
言うなれば、細かいものでも拾える=範囲も普通じゃない。
些細な刺激に=もうまんま、今まで書いたような感じ。
それこそ、自分にとってはそうあるのが幼い頃から当たり前。なので自分にとっては普通なのに。
それを見た周囲が、驚きの声を上げる、それ故に問いかけてくるほど、です。
周囲に人がいると、評価や驚きという反応を、ね。
違いすぎるからこそ、影響を与えてしまい、他者から出させるんですよ。
だから「自分だけでは話は出来ない」と。
出来る出来ない、やるやらない、ではないんですよ。
気づいたら自分の当たり前が、違いすぎてて、嫌でも周囲が何かしら反応を示す、です。
ほんとこう、幼い頃からずっとこんな感じなので、ストレスも多いんですよ。
自分と違う、だなんて、そりゃ当たり前じゃん?でしかなく。
逆に、成績や運動となると、違う要素が強くなるので、自分以上なんてゴロゴロ居る。それすらも、そういう差があるから当たり前、です。
人間が見せる違いなんて、個人で集約させると、凸凹しすぎるくらいに出てくるんですよ。
また、刺激に圧倒というのも、刺激を受けるからこその反応、と。
本当にそういう物持ってたら、自然と置き換えて説明できます。そして、反応という事になると、
出来てない人、多いのではなくて?
何かしらの固定の症状とか状態に、留まりきれない、ですから。
お前は犬か!とか、エスパーか?とか、本当に人間か?とか、嫌でも言われますから。
ホントこう、ね?
同じ様な物持ってるなら、相当に話が出せると思いますよ。
否応なしに集団生活強いられもするんですから、集団の中で違いを見せるも、その違いを受け入れられないとか、当たり前の日常。そんなレベルで発生するので。
なので、出来るできないどころか。
口で言っとるだけでしか無いぞ?と。
配慮や気遣いも、周囲をそれ程に把握してるだけでなく、それをもって先手を打ってるだけ、です。
配慮しよう、気を遣おうからの行動ではありません。
やろうとして出来るではなく。
気づいたらそうなってて周囲がそう言ってくる、です。
だから、出来る=特徴が一緒にはならないんですよ。
出来てるのが、当たり前とか、普通というレベル、です。なので、主張する意味がほぼないんですよ。
周囲が勝手にそう評価してるだけ、という側面もあるのですから。
あとがき
本当にそうあるなら、Wikipediaさん程度の内容でも、ね。
合理的に判断出来るから!
それ程に、色々拾えるんですよ。
そして、知るということは、自分にあう合わないではなく、客観的に知るということです。
自分に、だと、主観的=自分の立場しかはいらないので、ね。
特徴が同じだとか、ちょっとこう、何を知って、何を見て、何を把握した上で、そういう判断になるの?
その特徴は、自分ではない誰かが出した結果でしかないです。
その場に同じくして、第三者に見立ててもらうという、客観性を確保しないでどうするの?
また、ね。
そうだったとしても、自分に出来ることは、自分だから出来てること。
そこに言葉がたまたま当てはまるという、偶然の産物でしかないんですよ。
なので、自分が出来る事だったり、自分が見た景色とか、正直アホくさい話でしかない。
そもそも、概念って自分をアゲアゲするための物じゃないですから。
抽象化させて、一般的に使えるように纏めたもの、です。
そういう部分からは、主張するほうが真綿で首を絞める=自業自得しかねない、と。
申し訳ないけど、流石に国語や現国の成績どうだったの?と聞きたくもなりますよ。
ここ数年で、ホントこう、おかしいですからね。ネットも二十数年程は触れてますけど。
触れてる人も玉石混交だから、仕方がないとは思います。
でも、自分の主張を押しとうそうとするばかりで、言葉の使い方なってないのは、流石にマズイのでは?と、思います。
だからこその、侮辱罪厳罰化、みたいな、ね。
情報開示請求では、匿名であってもIPアドレスやらから個人が特定可能だし、ネットカフェとかであっても会員制なら「その時間帯に使ってた人居ますか?」から特定も可能なんですよ。
ネットの匿名性って、なにか問題があれば、匿名から一転するものなので、危機意識持ってないと、ね。
ホントこう、仕組みや、理由という、少し踏み込んだ部分を把握して扱うのも道具ですぞ?
ということで、書いてるうちに収まりましたが。
外に出ただけで、トリガー発動からの、お腹いてぇ・・・は辛いのです。
気付きすぎると、結構大変なんですよ。
ということで。
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