感じるのマジック
感じるという部分、感受性なんて誰しも持ってますわい!
という、ホントこうね。ごくごく当たり前の事が無視され過ぎじゃないかなぁ、と思います。
また、感じとった物って表現しないと分かってもらえないし、その為には言語化も必要で。
それ以上に、感じやすさとなれば、周囲に限らず他者との比較が必要で。
その上で、症状や疾患という医師の診断を挟む物があって。
HSPが心理学上の言葉と言う以上に、割と当たり前の事を無視し過ぎではないですかね?
そして、疾患でも無ければ、病院で検査しても異常がないどころか、逆に飛び出すぎる事もなく普通との診断、それで居ても話を聞いてもらえば、それはおかしいとなってしまう。
そうあるからこその「苦痛」があるんですよ。
ただでさえ、分かり合える人に巡り合う事すら出来ないってのに。
いい加減にして欲しいって言いたくもなります。
相当に真面目な話として、ね。
感じるという言葉のマジック
手品で言う所のタネですかね。
そこに引っかかるが故に、それが不思議に見えてしまう。そして惑わされもする。
HSPやそれに関する話題、HSPという言葉の扱い方が、見事にそう言う引っかかり方を見せてるのは流石に、
どの程度の敏感さですか?
って突くしかないっていうか。
HSPだという事にしたい自分にばかり目が行ってて、自分が抱えてる症状との比較とか、そもそもの症状について詳しく知るとか、そういう事をしないまま、
・環境から影響を受けやすい
・様々な刺激を感じやすい
そういう部分にだけ、目を向けて言ってますよね?
もう、問わなくても突けるっていうか、馬脚を露すとか、頭隠して尻隠さずとか。自分にとって都合の悪い部分は見ない、聞かない、知らないしてそうなのが見え見えというか。
とにかくおかしい感じ取りをしてる、でも病院で検査しても何の診断も受けない。それ程に感じ取り過ぎてる人っているんですよ。
感じとって気づけるだけでなく、それが自然体レベルだし、気遣いとか配慮という、他者との関りが上手くできなきゃ成し得ない事すら、当たり前のようにサラっとやってしまう。
コミュニケーションに難がある人には無理な部分は、出来すぎやり過ぎだと驚かれ。
自分に集中してるようで実際は周囲も感じ取ってて反応するからこそ、他者からは何故だ?何故そんなに気づける?と問われ。
苦痛どころか、気づきもしない、検知器みたいな機械が必要な微小過ぎる物すら感じ取る事が出来る。
それ程に、感じるのレベルが行き過ぎてるんですよ。
なのでね?
特定の部分だけ感じやすいとか、自分はそういうタイプだからとか、そんな話じゃないんですよ。
タネあかししなくても、その手品のタネってこうでしょ?を、何となくってすっぱ抜く。
物の例えとして書いただけですが、そんな感じで、そういう事があるはずないのに、な感じ方をする人も居るってのを、説明しようとしたのが概念の提唱の出所になってると思いますよ。
ストレスについての話
感染症が騒がれてる現状は、実際は倍加速してますからね。感じ取る事での苦痛って。
寧ろ過剰になり過ぎてるからこその、体側の本能的な検知でスルーする事が出来てるような感じもあります。脳が受け止めずにサラッと流してくれてますし。
感染症が騒がれる前と、受けるストレス量自体は多少増えてる感じはあるけど、変わらないって言いきれます。個人的に。
そもそも、結構昔からこういう事態は想定してたし、だからこそ声かけたり提案したりしてましたけど、平時だと取り上げてくれる、話を聞いてくれる人が全くって程居なくて。
もうこうなったら、心構えとか想定だけでもって感じだったので、なるべくしかなってないってのが現状でしかなく。
そういう身からすると、HSPかどうか?なんてのは、平時の時の方がより如実に出るような物で、現状で注目されてるからって飛びつく方が愚かしいというか。
ストレス感じやすい状況でもあるので、当たり前の反応してるだけだと思います。
あと、申し訳ないけど、平時には対岸の火事で傍観してたからこそのツケが現状なんですよ。
なので、ストレスを感じやすくなる非常時、緊急時を作ったのは政治がどうこうではなく、その他大勢の事なかれ主義な姿勢がそうした物でしかない、とか言えますよ、普通に。
そんな状況下で、HSPって心理学の概念持ち上げて、面白おかしくやってる人間って何なんだ?っていうね。
感じ取り方がおかしすぎるからこそ、普通の人には無い視点、考え方、意識、色々を持ってるんですよ。個人的にそう、だけでなく、そうある人からは異様さって感じ取れるんじゃないかな?って思います。
そうあるからこその苦痛
なんだと思います?
これって結構割とシンプルで、自分たちと違い過ぎるからって、その他大勢から、良いも悪いもを無駄に突かれたり、叩かれたり、相手の気分次第でそれが入れ替わるだけでなく、そうある当人の話は全く聞きやしない。
これなんですよ。
人間どうしても、異な者、異質さ、異様さを嫌う生き物だってのを、周囲がまざまざと見せつけてくれるんです。
そして、過剰な程に色んな感情をぶつけられ、そこからもう止めてくれってくらいに色々感じ取らされる事、ですよ。
なので、平時だ、緊急時だ関係なく、日常的にストレスをくっそ抱えるんです。
配慮、気遣いなんか、出来て良いじゃないですか。その方が、自然と物事が進んだりしますし。
でもそれを、なんでお前はそんなに気遣うんだ?気遣いすぎだってつっかかってくるんですよ。
正直、( ゚Д゚)ハァ?なんですよ。余計な仕事や、余計な役割を抱えないで済む側が、そうある状況を作ってる人間に、おかしい、やり過ぎ、出来すぎって不思議と何かしら文句をつけてくるんですね。
なので、それじゃ協力してくれますか?って問うと、No。
何で突っかかってくるんだよ?は、自分が気になったから。
感じ取りが低い人って、目の前しか見えなさ過ぎてるだけでなく、その状況が何故そうなってるのか?を追わないんですよ。下手すると、諭すように言葉を並べても追ってくれない。
で、自分が感じるおかしさに固執して、全体像をみないまま、おかしいと思う相手にごちゃごちゃ言ってくる。
馬鹿馬鹿しい話かも知れないですが、学生時代からこう言うのが日常茶飯事で、普通に起こりうるんですよね。
それどころか、そういう状況だと個人差とかそういう部分を見てくれないどころか、自分たちが困ると個人差、平等、権利、自由と、そういう言葉で騒ぐわ感情的になるわ。
もうね。
過敏性腸症候群だ、胃炎・胃痛だ、ピロリ菌いないのに胃潰瘍だ、円形脱毛症だと、色々経験させられるほどにストレスかけられるんですよ。
正直たまんないんですよ、ね。
まぁ、個人の経験ですけど。正直、ネットで知り合った人に話すと、余りの酷さに草はやされるくらいんなんですよね。
感じる、感じとるという事は?
その感じ取った分だけ、気付く、見えてしまう、分かってしまう、そういう事も相当にあるはずです。
また、感じる、感じやすいだけだと、周囲と比較した事にならないんですね。
それって、ただただ自分がそう思ってるだけ、という、個人主観を離れられますか?という問題が付きまといます。
共感にしてもそう。
共感出来てます!っていう自己主張だと、相手が居るからこその共感なのに、相手の視点は?っていうね。
配慮なんかも、目の前の負担が減るとかそういう現実的な部分があるからこそ評価される物でもあるので、手伝えてる、配慮出来てるっていう自己主張だけじゃダメなんですよ。
共感してもらえてる、配慮してもらえてるという、相手がそう感じ取ってるか?も重要なんですよね。
自分だけに作用する感じ取りであっても、周囲と話したり、なんたりで比較してれば相当におかしいと、周囲からツッコミをうけるんですよ。
兎に角、特定の部分に限らず、あれもおかしいこれもおかしい、五感なんかはお前はどうなってんだ?と言われる始末です。余程でなければ、五感は誰しも感じれるレベルってそうそう変わらないですからね。
更に言えば、感じとれてしまう事から普通だと思ってたはずの行動に対しても、周囲がやり過ぎ、出来すぎと、何かしらのきっかけで嫌でも触れてくるんですね。
自分以外の誰かが、自分が見せる物で、それは普通じゃないって感じ取ってくれるんですよ。
個人の経験談として、他者がやたら出てきたり絡むのは、そのせいでもあるんです。
誰でも感じ取れる、誰でも持ってるのが感受性です。
それが、高い部類にある。
証明するためには、他者の視点、他者の意見、他者の判断も必要になるんですよ。そうじゃなきゃ、比較したからこそ言える、敏感や繊細なんて言えるもんじゃないですから。
そもそもHSPって海外からの外来語なので、日本だけじゃなく、世界レベルで見なきゃいけない部分もあるわけで、日本だけ、日本独自で、好きかって言える物じゃないんですよってね。
ホントこう、どこの何を、どう見れば、今みたいな流れが出来上がるんですか?っていう。
世界レベルでみたら、日本にばかりそう言うタイプが居るって話にはならないのに。
やれやれです。
あとがき
ホントね。
アメリカの方が精神医学も心理学も進んでるし、だからこそDSMっていうアメリカの基準が日本にも導入されてるわけで。
また、日本ってそういう意味では遅れてる方で、アメリカに限らず海外の方が進んでるってのもままあります。
LGBTQも、権利だなんだって言いますけど、海外とは相当な温度差があるし、情報統制なんてされる国じゃないのに、そういう海外の情報で都合が悪くなりそうなものは入ってこない。
それなのに、なぜそう言われるのか?を追求しないまま、日本人はシャイ、物を言わなさすぎとか持ち込んだり、NEETも面白おかしくあつかって差別的な言葉に仕上げてるし。
うつ病もね。少し調べると、DSM-4の頃に日本でも扱われる様になりましたが、今はDSM-5になってて、改訂という部分には誤診云々も入ってるという事に辿り着けます。詳細はね、難しい部分がありますけど。
ほんと、こう、感じとれるって部分には、気づいてしまうという部分もあって。
そこから、自分から調べたり、触れたりしに行く事でも、周囲からおかしいレベルのものを得てしまうんです。
そういう意味では、感じとる、刺激を受ける、影響を受けるはいいです。
でもその先にはどうなってますか?っていうね。
そうある様を調べたら、症状に辿り着くのと同じなんですよ。
HSPってどちらかというと、人が感じとる、感受性という部分の作用で影響を受けるわけですが、その後ってその人はどういう反応を示するのか?があり、さらにその先としてどういう行動をとるのか?というね。
そして、行動を取るからには結果もあります。その結果がどう判断されるのか?っていうね。まだまだ先の解明もされると思います。
それを現段階、っていう経過とか、過程の状態なのに、なんでこうなるのかねぇ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?