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書くリハビリ 割とボヤキ

いやー、色々溜まってしまいますね。

うん。

ホントね。自分でも不思議といえば、不思議なのですが、それでも気づいたら自然とやってしまってるだけであって。

そもそも、自分と違う他者が取った行動に対し、自分の価値観や物差しを当てがって、同じじゃないからありえないって、ねえ?

自分と違う人間なんだから、違ってて当然では?

というか、何で自分の主観で測って、”同じ”にしようとしてるの?

ほんとこう、人間って不思議。


出来る出来ない、やるやらないではなく

気づく、という部分では、目や耳による認知も関わってて。

そこが、妙なほどに細かすぎる。

でも、その細かさが、気遣いや配慮、優しさだと、周囲は見てくれてる。

それでも、どんな評価をされても、そういう感じ取った部分や、認知から即座に繋がってる行動というだけなので。

やるやらないとか、出来るできないですら、ない。

指摘されて初めて気づく程に、やってしまってる側としては、自然体だし、無意識の行動でしかないんですよね。

だからこそ、指摘されても最初は戸惑うほど。

うん。

まぁ、その指摘自体が、全くもって違う赤の他人である私の行動を見て、自分と比較したら出来すぎてて、普通じゃないからという、ね?

知らんがな・・・でしかないので、ひたすらに面倒で。

自分の主観、自分の価値観が普通になるのは誰しも同じなわけで。

そういう部分が同じとはいえ、同じ学校で勉強しても差が出るほどに、脳が関わる部分って、相当に違いもあれば、得手不得手もあるので凸凹する。

そういうのが個人差、今風に言えば多様性。

なのに、自分には出来ないから、自分には無理だから、自分と違うから、と。

何故、違う他人を、自分と同じにしようとするのか?っていう。

自然体でやってしまうので、何がどうあれ自分が自分だからそうある。

そういう部分も持ち合わせてるので、自分はこれだけ気を遣ってるのに!というような事は、湧きもしないんですよね。感情や思考として。

だから、要求することもないんですよ。

指摘されて気づいたとしても、無意識とは言え、自分の内面や脳が判断して行動してる事も把握できるので、やるやらない以上に、そういう人間だからやってしまってるだけ。

そういう事でもあります。

そういう部分から、自分だからこそやってる。だから、周囲には要求すらしない。

でも、周囲は何でか自分と比較して、おかしいだ、違うだ、ありえないだ、なんやかんや、と。

気づいたらやってしまってる=好きでやってるって事にして「アイツはああいうやつだから」にしておいて欲しい、と何度と無くお願いしたんですけどね。

「だって、違いすぎるから、おかしい」

否定されるんですよ、ホント面倒くさいし、不思議。


多数派、多数決の落とし穴

個人としての気付き、感じとり、感受性という部分に対する、周囲からの指摘。

否応なく、何度と無く、矛盾甚だしいですよ?と言わんばかりにぶつけられたものはほぼほぼ・・・

そういう多数派=みんな、普通、一般的という落とし穴にハマってる様が見て取れます。

違うにしろ、おかしいにしろ、ありえないにしろ、毎回毎回、そういうね。

自分に都合の悪いものは、皆同じにしようとする、という部分があるんですよ。

逆に、自分がそういう扱いをされると、個人差だ、人それぞれ違うだと、言い出す。

自分はいいけど、他人はダメ。

平等?権利?自由?

普段から無きものにされてますが、何か?

そんな感じの扱いを受けるんですよ。

水分を欲して、何かしらを飲むタイミングも違うからこそ。

トイレに行きたくなるタイミングも違う。

感じるという部分には、自分の身体があるからこその、生命維持だったり、欲求があったりで、感じるという部分があり、それは人それぞれ違うという部分もあるんですよね。

体があるからこそ、感じる、にも違いがあるのが当然で。

そういう、感覚的な要素が絡まない、視力や聴力すらも違うのが人間なわけです。

なのにね?

都合が悪いから、と言わんばかりに、こちらが見せる違いに騒ぐのかは、わかりません!!

うん。まぁ、わからないとはいえ、おおよその見当としては、そういう、ね。

多数派とか、多数への迎合や、それによる安心感に落とし穴がある、と。

ほんと、色々面倒でした。

流行りに飛びつかないのはおかしい、流行ってる音楽を聞かないのは間違ってる。

(゚Д゚)ハァ?

自分の感性に、何も響かないから触れないだけですが?

こういう部分でも、皆と同じじゃないのは、おかしい、ありえない。聞かない、触れないのは悪いことだ、と。

んじゃ、こちらが好んでる物に興味を示してくれるか?と問えば。

普通じゃない、流行りじゃない、マイナーだから嫌だという。

オタク文化も、そういう、ね。多数派の動きという部分で変化を迎えたんですよね。

散々、キモイだ、汚いだ、下らない情報に踊らされるばかりで、人を見てないからこそ、蔑んだり、バカにしたりしてたのに。

それが、ある時突然話題になり、触れる人が増えだしたから、自分も触れよう。

吊し上げの様なイジメを受けただけでなく、理解不能だと。

蔑んでるから、見下してるからこそ「理解不能」だと言ったものを、周囲が触れだしたからと触れた結果、「実は良かった」って。

そんなの、流行りとして持ち上げられて、世の中が良いって言い出したからでしょう?

HSPなんかは、これとは真逆ですが、似たようなもんです。

情報に乗っかってるだけでなく、自分みたいに、辛い苦しいを言ってる人が多いから、と。

実情を知らずに情報に飛び乗ってる。

もしくは、そういう流れにしたい人たちが、匿名だからこそバレにくいとはいえ、複数アカウントを用いて、あたかも多くがそうあるかのような流れを作ろうとして無くもない。

ほれ、みなさい。

情報に飛び乗ってるだけ、でしょ?と。

言えてしまうんですよ。

そして、ね?

だからこそ、肝心な出どころである、心理学上の話には一切触れない。

触れると、ボロがでる、馬脚を現す、になってしまうから。

うん。

というかさ。

感受性高いと、こういう突っつくみたいな、悪い扱い方もできるんですよ。

違う所を見てるだけでなく、見てる幅も広ければ、深さも深いので、ね。

だからこそ、あえて突いて痛い目を見せてる、と。

出来ないことを、出来ると言ったり。

やれもしないことをやれる、なんて言ったりするのは。

自滅や自爆を招くだけで、自分のせいで自分がガッカリするのに、他人に責任転嫁しようとして、ドツボに落ち込むだけだから。

やめたほうが良いんですよ。

というか、自分も同じとすり寄ってきたのに、こちらが度を超えてたから、裏切りだ、おかしいだ、ありえないだ、と。

勝手に同じにして、勝手に自爆する人って、実際にいましたから。


それこそ、正に・・・

環境感受性という、ね。

環境から受けた影響と、その結果だと思います。

かれこれ、1年以上、今のブームを見てますが、ある時を堺に、

5人に1人

この表現が消えてるんですよね。

そもそも、約20%とは言ってるものの、正確な統計としてのデータは取ってないと思いますし、取るにも労力やら時間やらがかかります。

統計的なデータが取れてれば、グラフや表も合わせて載せると思います。

まぁ、それ以前に、明確な基準が無い。

それを作ろうにも、個人個人での差が激しくなるどころか、抜けすぎる人はありえないような物をもってなくもない。

ユングやフロイトを追うと、オカルティズムや錬金術、占星術という話もでるように、そういう非科学的な方向に行かなくもない。

と、思いますし、実際に個人としても、可視化出来ないからこそ、説明しきれないものを持ってますし、そういう部分が出てしまうことで、明らかにおかしいと言われます。

相談なんかで、話を聞いてるだけなのに、その場にいない第三者について、特徴や言動、おおよその性格について、もしかして、多分、恐らくと言いつつ、

「え?何で分かるの?もしかして知り合いだったとか?」

話を聞いてて、脳内でイメージ再生がされるとはいえ、意見を出すなり、指摘をしてみるなりした、こちらも、

「え?そんなに一致してたの?」

という、感じになります。

考えてる様子は見せるものの、相打ちだったり、その他色々から、話を聞いてもらえてる、という部分しか、相談相手も、周囲に人がいればそういう人たちも気づけ無いんですよ。

まさか、同時に頭の中で整理してるだなんて。

うん。自分でも不思議なんですよ。

元々幼い頃から本が好きで、小1の時点で読めない漢字があるのに、と母に止められはしたものの、教えてもらえばいいから、と。

母が持ってる小説とか読み漁るようになりましたし、その時点で既に、読みながら頭にイメージ再生がされる状態でした。

こういうのも、気がついたら自然とやれてたし、そこから小学生向けの江戸川乱歩作品 少年探偵シリーズを小2から触れるようになりましたし。

当時の担任が、置いてくれてたんですよ。読める人もいるだろうし、読んでみると意外と楽しいですよ、って。

で、読んでみたら、当時はドはまりしてしまった、と。

なのでまぁ、元々絵本や図鑑を読むという、本好きの部分から、自然とアレコレ触れていった結果、磨かれた部分もあるんですよね。

そしてこういう部分も、文字が基本的に多い本を読んだからこその影響を受けている、と。

本が読める、読ませてもらえる環境があったからこその影響とも言えます。

とはいえ、ねぇ。

家の都合というか、長男と跡取りの呪縛というか。

あれもこれもを、ダメ出しで認めてもらえなかったんですよねぇ。

まぁ、それでも仕方がないと、選択したのは自分ですけどね。


あとがき

いや~ん、ボヤッキーになっちゃう!

扱いきれないものを、扱いきれないからと、都合が良いように捏ね上げるというのは、ホントもう、いい加減にしてくんない?かな?

と、思います。

子供の頃からこう、機能不全家庭とか、虐待とかそういうのにも含まれる、兄弟間の格差だったりも、常に感じてたと言うか、

いつも、我慢とかしわ寄せが自分ばっかりでしたからね(苦笑)

それが、学校に行っても同じく。

疎外感を感じてたし、それが虚無感になるのも早かったです。なので、小学生時点で夢とか将来の希望とか、バカバカしいって思ってしまうほどで。

なのでね。

ちゃんと知ってもらいたいんですよ。

いわゆる「大人しくて真面目」なんかも、そういう生きる知恵とか、生存本能的な部分から身につけて、心配させないように振る舞うだけだったかも知れないんですよね。

で、そういう深い所というか。

実態に触れようとしないまま、表面の善悪で叩いてるほうが、寧ろ悪ですわ。

知りもしないのに、知ったかぶりで叩いてるだけ、ですしね。

頭脳は子供、体は大人。

小学校高学年時点で、大人からすら、考え方が大人とか言われるほどだった身からすると、

世の中に、ほんとうの意味での大人って、殆ど居ないよね。

とりあえず、ガタイだけは成長してると言わんばかり。

うん。

子供だって1人の人間だし、子供のためっていうなら、子供と向き合ってから言わないといけないのに。

表面的な部分だけで「子供のため」って。

そうやって、成長しないままの大人が多いから、親ガチャだなんて言われもするわけですが。

まぁ、成長するほど修正が効かなくなるので、スマホの普及度合いを考えると、幼い世代に悪い影響が行かないように。

余計なお世話かもしれないですが、ちょっとお待ちなさいな、と。

それ以上に、自分自身が変わろうとしないのに、他の誰かや政治が変われというのは、よろしくないと思います、よ。

ということで。

ボヤッキーしてみました。


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