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書くリハビリ

さて、と。

また、個人の内を書くわけですが。

必ず、良いことばかりではない。

考えが違うからこそ、私が他者に対して感じるのと同じ様に、私が言う、書く内容に違和感や疑問を感じると思います。

うん。

でも、それは正しい、間違いにするのではなく、何故?と。

あの人は何故、こういう事を言うのか?と考えた結果、なにはともあれ違うという事は、こういう人に巡り合う事があると言うことなんだな、と。

客観的な部分に気づいてほしいかなぁ。

そう思うので。

批判は覚悟の上、かつ、言いたいことを言ってくれて構いません。

でも、私は私であるがゆえに、私の道を行くだけです。

はい。


ということで、相互通行なのよ

○○だから、という様々な思い。

男女平等なんてそもそも、体の違い、仕組みの違いがあるので、平たく等しくなんて無理なんです。

とはいえ、どうしても寂しくなった時に、同性の友達ではなく、異性のパートナーが居てくれれば・・・と感じる人がいるのも事実。

また、生物であるが故に、子孫を残すを遺伝子に組み込まれたがゆえに、男女という違う他者が居なければ成し得ないこともあります。

うん。

どちらがどうではなく、どちらにも相応の思いがあり違うもの。

でも、時としてそれはお互いに作用しあうものでもあるという、相互であるがこその、違いからくる片側の悩みにすらなる。

そういうものなのですよ。

また、ね?

幼い頃からもう、性自認って何ですか?という程に、内側についてバグが発生してる身としては。

自分の望みが適わないだけでなく、体が違うからこそ、その苦しみ、辛さが実感できない、共感とはいわずとも、わかちあうことができないので。

すっごく、申し訳なくて、どうしようもないほどいたたまれなくなる。

何度となく悩み、何度と無く払拭しても、根底がおかしいからなのか、どうしても悩んでる人、辛そうな人を目にした時には、心のなかで

「本当にごめんなさい」と。

実際に言葉を向けられたら、間違いなく。

「突然謝られても困るんだけど!?」

というような謝罪が心のなかに発生したりします。うん。

それが何だ?と言われても、それが私だから素直に理由を述べて、だから謝罪の言葉を口にしたんだよ、と伝えることしかできません。

正しい間違いというのは、時としてそういう、ね。

相手に委ねて判断してもらうモノ。

そういうものにもなるので、一方的に正しいだ、間違いだ言うだけでは意味がないし、言ったからこそ、違う意見を持つ誰かから反対意見を述べられてしまうのも、

不特定多数という、数多に違いを持つ人が閲覧するネットという世界、環境だからそうなる

そういうものなのですが。

ほんとこう、ね?

多勢に無勢ではないけれど、多数派だからと、相手の意見を潰しに行くようだと。

ただの言論弾圧になるだけでは?

自由を掲げる割に、違う相手の自由は踏み潰そうとしてる様はいい加減似して欲しいと言うか。

違いすらも、話し合いというお互いに意見を出し合うという、相互関係を生み出すものだと思うのですが。

なんかこう、毒された、堕落したというような。

厳しいもの言いかも知れませんが、個人としては、世にある様々がそういう風に映ってしまうんですよね。


余りにも違いすぎたという経験から

ホントこう、下手すると精神科通院してても。

所謂一般的や普通というラインを超えてしまうせいか、病院に治療に行ってるはずなのに、そういうラインと比較された上で、否定的な物言いをされてしまう。

割と最近まで、そういう状態が続いてたので、帰宅に際しては、どうしても考えざるを得ないという事が続いてました。

今は、事情から転院することになったものの、その先での主治医がそれを受け止めてくれると言うか。

大変とは思うけど、今からでも少しずつ良くなるように。頑張って行きましょう、と。

言葉の扱い方から、全部が全部希望通りは無理とは言え、信頼していいんだという安心感を覚え。

結果、帰宅に際しては、さて帰宅したら作業して、休憩でもしようかな、と。

帰宅した後の事を考えるだけになり、気がついたら、負担が減ってない!?と驚くことになったほど。

ほんとこう、ね。

私の方も色々観察してますが、何を考えてるかはわかりませんが、いたたまれなさという表情を見せてくれるので、安心できると言うか。

自身が相談に乗った時に、なにはともあれ、落ち着いた、安心したってこういう事なのかな?を今になって実感してたりします。

もう私、40半ばなのですが、ようやく「受容される」という事を覚えつつあるんですよ(苦笑)

母に対してはどうしても、男女の違いがあるとは言え、婿養子をもらって家を継いだ母と、その長男として跡取りだー子供だー孫だー、という周囲からのうるさい声があって、どうしても私のほうが現実に対しての見方が深い分、母の方への受容が多めになってたのも事実。

だからこそ、死に際して母が、

「あんたが精神的に病んだのは自分の責任だ、だからなんとかして回復して元の生活に戻ろうと頑張ってたけど、もうダメみたい。苦しいから楽になりたい。」

そう告げた上で、親として守ってあげられなかったという後悔を述べ、謝罪するという行動に出た。

そういう間柄だったので、いまいち受容されるって理解出来てなかったんですよね。

いやー、何にしてもですよ。

長かったけど、まだまだこれからでもあって。

現在の主治医とも通院をしながら関係を構築し続けるわけですから、良いも悪いもを経験しつつ、単純に医師と患者というだけでなく、人と人、そういう間柄でも向き合っていくのかなぁとも思います。

うん。

母のことを思うと。

なにはともあれ抱えたものは自分で判断して抱えたものもあるので、それが暴れないようにあれたのは、

母が私の鞘になってくれてたから、とは思うんですよ、ね。

ほんとこう、ね?

過ぎたものを持つということは、自分で制御してても、流石に影響を与えた他者までは制御しきれない。

それが現実として、目に見えて分かるほどなんですけどねぇ。

なんだよ、あのブームは(苦笑)


やっぱり、多様性は扱えない(笑)

現状を見据えつつ、今の日本人には多様性なんて扱えないだろうなぁ、と思ってたのですが。

徐々に、実感どころか、目に見えすぎてて頭痛い!と言うほどになりつつあります。

ほんとねー?

いいますけどねー?

多様性も違いも、自分と違う人がいるから、それで初めて認識できるもんだぞ?

それなのに、何で言葉を持ち出すのに、それに沿わない人は何だという人が出てくるの?

ホント、人間って、わけわかんねーな?

みんな違ってみんな良い、と言いつつ。

方や、異を感じたものには、感情論のみで異を唱える。

うーん。

その、ねぇ?

流石に私も限界近いとはいえ、言ってる以上突け無いという部分はあるにしても。

何で違うことに対して、良い悪い、正しい間違いという判断が生じるの?

違うからこそ、異なる意見を持つし、だからこそ衝突することもあれば、話し合うことで解決することもある。

それが違いであり、多様性なんじゃないの?

ホントこう、平等も、自由も、権利も。

相手を見てなさすぎだからこそ、相手の平等や自由、権利を奪う、侵害するというのは流石になんというか。

こういうのが世の中に溢れすぎてて、うつの治療どころじゃないんですよ。

極端に違いすぎる1人。

何でか不思議と、環境が変われど、対人関係が変われど、兎に角違いすぎるだ、おかしいだありえないだと否定をうけ。

それでいて、都合次第で、真面目だから、面倒見が良いから、能力が高いからと、集団が持つ負荷を1人背負わされることになる。

良いも悪いも、正しいも間違いも。

極端に違う個人だと、個人に集中するし、だからこそ。

スケープ・ゴートになる機会多いですが?

ねぇ?

なんで、ただただ違うってだけで、そんなに否定しちゃうの?

ほんとこう、ね?

つもり=意識、意図どうこうだと、気づけない人は良いこと言ってる=ポジティブなつもりになってるだけで、大して物が見えてない、判断も出来てない=ネガティブを振りまいてるんですよ。

だからこそ、ストレス社会。

意識しなくても、視認って強く働きます。怒りの感情から声が大きくなるようなら、出してる側がスッキリするだけで、ぶつけられる相手、周囲にいる人には負荷、ストレスになるんですよ。

そんな感じで、ね?

少なからずストレスを抱えてしまうのが人間です。

うん。

感情に流されるのは仕方ないですが、冷静になった時に、やっぱりこう、ね?

医師や、カウンセラー、相談出来るところに頼るだけでなく、個人個人が少なからずのケア出来るようにならないと、お先真っ暗だと思いますよ?

まぁ、なにはともあれ。

個人としてはこの辺にしておきます。

ほんとこう、小学校に上がった時点で、勉強だけでなくイジメられにいくと内心思うほどの経験してるので、現状はすっごくつらいです。

イジメがフラッシュバックとは言わないまでも、思い出されるんだもん。


あとがき

勝負にしろ、競技にしろ、何にしろ。

違う相手が居るからこそ、認識できる違いがあるのが道理です。

ほんとこう、ねぇ。

違う相手がいてくれるからこそ成立してる。世の中にゴロゴロあるのに、都合の良い部分だけしか見れてない人多すぎ問題。、

まぁ、性別部分にしては、口にしても普段優し過ぎるほどだし、そこまで気にしなくても(笑)と言ってくれる人もいますけど、ね。

個人としては、内面の自分が違うのではなく。

なんで、体を間違えてうまれてきちゃったかなぁ?なので、ね。

同じ苦しみ、同じ辛さを経験するからこそ、出来ることってあるんです。相談上手として、そういう部分があるというのは言えるんですよ。

なにはともあれ、極端に違いすぎるのか、不思議と1対他で良い悪い、正しい間違い関係なく、極端な1だから無きものにされるという差別的な扱いってずっと受けてきてます。

話聞いてくれたことって殆どないんですよ。

違う違う言いながら、違いの内容は認めないっていう矛盾。

それを当たり前の様に向けられてきただけでなく、向けてくるのも違いのうちだからと向けられる側として、少なからず受容をしてたんですよね。

そういう受容をしてるだけなのに。

話を聞かないまま、真面目な人だ、優しい人だ、配慮ができる人だ・・・。

私の歌を、聞けーーーーー!!!

ならぬ、

私の話を、いい加減、聞いてください、お願いしますから(´・ω・`)

という、うん。乾いた笑いが出ちゃう。

ほんとこう、それ程に見えすぎるわ、気付きすぎるわが、幼い頃から当たり前だったからこそ、極端な1として叩かれるという機会に恵まれたわけなのですが。

HSPブームも、ほんとうにこう、ね?

何でこうなってるの?です。

まぁ、見えてしまうのでわかってはいますけど。

逆にそうあるからこそ、疑問なんですよ。

一般人どころか、精神やんで転げ落ちた精神障害者ですら簡単に出来るって言えるような事が。

出来て無くね?なんで?

ってね。

良いも悪いも、正しいも間違いも、二極化できるのは、違いがある極は2つあるから出来ることなのに。

なんで、片方だけをなくそうとするのか。

無くした所で、ね?

その先では、些細な違いからまた、衝突するだけなのが人間社会だし、紡がれた歴史から読み取れるもの、なんですよ。

うん。

ということで。

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