見出し画像

子供時代を振り返りつつ

色々ありました。そして、ただ、色々あったと言うだけでなく。

親も周囲の大人も説明不足。
それどころか、「そういうのは大人になる内に、勉強して覚えるから」という感じで、大人が上手いこと言い聞かせてるようで。

「答えられないんでしょ?」
まぁ、流石に言うと、普段がどうあれ怒るのが大人。そんな環境でした。

聞き分けが良い、面倒見が良い

だけでなく。

えらいね、よく知ってるね、すごいね

とか。

知ってるも何も、目で見て耳で聞いて。
生活の中だけでなく、テレビで言われるような事を通して。
実際に見聞きしたら、知れるでしょ・・・。

良い子を演じつつ、実はすっごく冷めた子でもありました。

聞き分けが良い。
大人にとっては都合が良い。
そう、それを分かってて、そういう振りをしてた、演じてた。
それだけなので。

落ち度があると、正に。
嗅覚だけでなく、親の手にすら噛みつく犬にもなってたんですようよう。

そんな子供はどうあったのか?

みたいな、話しをしてみようかなァと思います。


あくまで個人は冷めている

何ていうんでしょうね。
様々に、影響を受けたというか、田舎に帰省するとだいたい夕方。
曾祖母が仏壇の前でお経を上げてるタイミングと合うだけでなく。
まぁ、着いたら、まず仏壇にご挨拶。

昭和生まれなので、まだそういう環境もあったのですが。
そこでもきっちり学んでました。

それ故の、ね。

個人として時折持ち出す、子供の頃の動物図鑑の話。
進化論の図と、神仏という存在の結びつけ、そこからの質問。

ただただ、なんで?だけでなく。

そういう事をひいおばあちゃんはやってる。
ひいおばあちゃんだけでなく、大人たちは教えてくれもすれば、そういう事を口にしてる。

「なら、この進化ってものの図の上に、神様、仏様が居ないのは何故なの?ほわーい」

聞きたいことを、段階的に。
何がどうあって、私は疑問を持っている

そう伝えながらだったので、そうそう答えられないどころか。
「まだまだ、子供だから」
と思って扱うようなら、即座に気付いて、別な質問で打ち返す

そんな感じでした。
それに対して、聞き分けが良いのと、鋭く気付いて質問するというのは二面性にも感じられそうですが、そこも、ね。

「良い子にしておかないと、怒るでしょ?」
はぁ、やれやれだぜぇ・・・。

という方が、個人としての実際でした。

まぁ、それから40年近く経ってますが、自分であるがゆえに
「嫌な子だし、厄介だよ。相手したくない・・・」
そういう感想が生まれるのも必然というか。

扱いづらいんだろう、という想定と、少なからずの把握を、無意識の内にやってたというか、それこそ目に見えるの時点で、見取って学んでるという状態だったので。

自分だけでなく、弟が成長してからは、それこそ、こっそり学んでる毎日でもありました。


それこそ、そういう環境だから

個人としては、幼い頃を持ち出す時は、HSPという言葉。

心理学上の概念、感覚処理感受性
そして、環境感受性

そういう言葉とセットにしてますが、それこそもう、それなりに触れて自分なりに落とし込んでみたら、

「いやー、ホント、環境が影響している。」

弟が成長してからというもの=ホント兄弟が真逆と言わんばかり。
また、あくまで矛先を収めただけで、隠し持ってた性別に対する認識を既にもってたからか。

弟が一緒に歩いて出かけられるようになってから。
寧ろ、間違えられる機会増えたんじゃないの?
弟と一緒の格好してるのに「可愛いお嬢さんですね」って、さぁ。

私からすると、
「だから、体はそうであっても、内にいる自分自身はそれを選んでない」
親の言う、
「生まれる時に性別は選べない」
という発言も、即座に揚げ足取りと言わんばかりに返すほど。

とはいえ、そうあった時点でも、バスで移動してると病院の近くを通るのがルートなので。
精神に関する病気、病院なのにという疑問、でも、大人たちの扱い、様子。
禍根として残りつつも、当時の環境だと致し方ないよなぁ
だって、それこそ「人間として終わった」
病院=治療する場に行ってるだけなのに、大人って本当に・・・
まぁ、子供として冷めてたのは、こういう部分も関係してます。

また、ね。
それこそ真逆と言わんばかりというのは、買い物に出る際は幼いので連れ添うわけですが、おやつ。
そう、おやつです。

とにかくゴネる、多くを求める弟vsそんなに毎日はダメと言う母。

それをこう、客観的に見ながら、学びつつ、状況次第では上手いことやるというか。
あまりに弟がゴネるので、お仕置きという感じでいっとき離れて買い物に行く姿だけを見せる。
大人のやり方なんでしょうけど、そういう母の行動に合わせるように、甘えん坊でもあった弟に、
「おかあさんがバイバイしていいの?おかしとおかあさんどっちが好き?」
簡単でわかりやすい質問をして、
「おかあさんの方が好きだから、バイバイは嫌だ」
と泣き止ませて、それじゃ、お母さん所行くよ?と、連れて後をおう、と。

今では考えられないかもしれませんが、当時だと、寧ろ身代金誘拐だなんだで、大人のほうが無意識の内に、見張ってくれてる、必要以上に首を突っ込まないという距離感を保ちつつ。

そういう環境もありました。

なので、親の方もお仕置きという感じで、姿を少し隠すということは、あったんですよ。

でも、結局もどってくることになるので。
弟からすれば、その時までゴネてれば、運良く優しい方が100円くれて・・・という時代でもあったし、母がもどってくるのを承知でゴネてたので、戻る=ゴネ得という、成功体験になってしまいます。

なので、ゴネてる限り、弟の勝ちということにもなるのが分かってたので。

「あんた、お母さんが好きって言いながら、おやつのことばかり言ってたら、本当にいつか・・・」
それこそ、まんが日本昔ばなしとかを参考に、そういう話を、ね。

私も分かっててやってました。

なので、成長してからは、弟は私に喧嘩をふっかけてし返されて、泣いて母に訴えるとか、ね。
これのお陰で、兄弟間格差みたいな扱いも長引きましたが。

日常生活の中でも、自分だけでなく、家族も通して、人間関係というものをちゃっかり学んでたというのも、隠してた実際というか。

それ故に、こう、ね。
ただただ面倒を見るだけでなく、ある程度の結果や収束をもたらすことも出来てたので。
「面倒見が良い子」とそれこそ結構な頻度で言われてましたし、イジメの原因にもなりましたが、小学校に上がってからは良い子の見本扱いでもありました。

そしてそこに、目に見えなかろうが、環境の中の違和感。
困ってる、けど言い出せない。
そういう子の感情を、不思議と目に見えない部分で感じ取って、顔を上げて見回して。

見つけて対応する。

社宅住まいで、年下の子が増えて面倒を見る人数が増えてからは。
「ほんとこう、子供を連れて遊んでるのが保母さんみたい」
まぁ、社宅の敷地にも砂場とブランコ程度には遊具があったので。
そういう評判もつきますよね。

そんな環境でもありました。


それ故の厄介さ

まぁ、そんな感じで。

HSPだ、感覚処理感受性だ、環境感受性だという言葉に対して、客観性や正確性を重視した情報を取り入れてると、それこそ、ね。

そうあるなら、納得できるでしょ?

という、いつものようなツッコミを先にしておきつつ。

それ程に、様々に。
買い物だろうが、遊園地だろうが、なんだろうが。
区切ればそういう環境という、ね。

意識しないと気づけ無いようなレベルで、場所、状況、状態、言い分、表情や感じ取れる感情、ほか色々。

「そんな事どこで気づいたの?知ったの?」
親が教えなくても、その時々で見てたから、と。
それ故に判別出来るようになった、と。

とはいえ、余りにも頻度が多かったので、
「そんなに見てたら・・・」という注意は受けてましたが、この注意を受ける時は必ず。
「何で気付いたのか?」「何で知ってるのか?」「何で出来てるのか?」
という感じで、親だけでなく先生ほか周囲の大人が、事後で突っ込んでくる程なので。

見てる様子に、一切気づかれたことがない。

それこそ、成長して、相談にのるようだと。
「そんなところに、いつ、どうやって気付いたのか?」
話しを聞いてる姿からは、そういう所を観察してる様子は一切ない。
そう驚かれます

三つ子の魂百まで、ではないですが

まぁ、幼い頃から変わらない。
本人だからこそ、そう言えるのですが。

ホントこう良い時は、助かるけど。

厄介な時は、うまく丸め込める事が、無い。
わからないように、気づかれないように。
それこそ「言うことを聞いた振り」をして見せてたので。
”聞き分けが良い子、そういう評価、評判”

幼い頃は、とにかく目で見る、だったのですが。
成長してからは、鼻だ、耳だの感じ取りが、周囲には出来ない。
下手すれば飛び抜けすぎて「犬かよ!」と言われるほど
に。

なっていったわけですが。
やっぱりこう、ちょっと、おかしいよね(苦笑
自分の事を話してるのに、そう思ってしまいます。


だからこそ、感覚処理感受性という言葉

心理学上の言葉として。
この、感覚処理感受性が高い人=HSPだと定義する。

こういう話が出ないのは、本当に疑問です。

それこそ、感覚的に。
内容に触れてれば、掴めてしまうから。

そこを言うための、ね。
1歳時点での、あり得ない把握の仕方と、行動。
そんな言葉すら理解できるはずがないのに。

でも、目で見て、それこそ感覚的に。
「こういうことだろう」「こうしたほうがいいだろう」という、結果を得られなくても行動する

おそらくまだ1歳数ヶ月だったので、病院に行った際は一緒だったと思うし、連れ立って診察室に入ったと思います。

そして、知ったのは、母のお腹に弟が宿ったということ。

記憶は一切残ってません。
でも、その頃から甘えるどころか、気遣ってる、気付いて配慮してるとしか言いようがない行動日常化する様になったそうです。

まぁ、こういう病院に行ったことと、いわゆる”つわり”という状態を結び付けられたか?は。
記憶としては定かではないです。私本人について、の。

油断して失念してたとは言え、ガンの闘病生活の中で思い出しただけでなく、人払いしてまで伝えてきたというのは、おそらく実際にそうあったのは間違いない。

それこそ、可能性として、そういう線はある。

こういうのも、可能性というのは、割りと言い訳で。
感覚的にはそういう事だと掴めてる、の方が実際とも言えます。

そうしておかないと、それこそ集団で、言葉で叩かれてましたから。
そういう意味でも、本当にね?
色々経験してしまうんです。
良いも悪いも、それこそ、人間同士、なので。

まぁ、経験は確かにしてるわけですが。

いくら、母親からの視点、意見とはいえ、1歳でそうあるだなんて、ねぇ。「そんなことあり得ないでしょ・・・」

こういう場合、気づけばいつもそうなのですが、まず、
「自分自身が否定した上で、考察する」

受け入れて肯定したら、発生するのは傲り。
七つの大罪なら、サタンが該当するという、傲慢の罪。

そして、こういうのも「わかったつもり、知ったつもり」という”つもり”だからこそ、失敗してるのに、逆キレをする。
親だけでなく、もう、いろんな人、様々に性格やタイプも違うのに、不思議と一致する様子

それを見て、人の振り見て我が振り直せ

なので、まず、自分自身が受け入れすぎないように、強めの否定をします。

とはいえ。

所詮は独学でもあるので、間違いはあると思いますし、あくまで”現時点での話と、可能性の追求”を個人がやってるだけなので。

研究で得られる知見次第では変化しうる。

これは間違いなくそうある、と言えます。

とはいえ。

流石にねぇ。

敏感って感じやすいだけじゃなく。

敏感だからこそ、小さすぎるものも感じ取れる。
それ故に、感じ取ってる外界の情報はすごく多い。

だからこそ、よく気づく、気がついて配慮ができる=気遣いすぎ。

社会人だった頃は
「そりゃ、わからなくないけど、お前は多すぎる」
「人が気づかない細かいところに行き届きすぎ」

それこそ、頻繁だったのもあって、色々言われてました。
でも、頻繁にみてるからこそ「いい加減そういうタイプだとしてくれないと、動く度に毎回これだと、こっちは困るので」
言われる側は困るので、説得しようと何度も訴えましたが。

言うのは良いけど、聞くのはダメ。
そうされてたんですよ。

そして、あくまで、一例なだけで。
細かいことを上げだしたら、類似からの経験はクソ多い、すごく多いです。。
即ち、経験が多いし、経験値もその分、なので。

本で読んだから、知った、わかった、なんてのは。
スタートラインに立ててないで?
と、ツッコミたくも、なるんですよ。

ほんと、人間って。
やれやれ、です。


あとがき

これまでは割りと、辛い記憶。
そればかり、だったのを変えてくれたのが、環境感受性という心理学上の概念

それに触れながら、色々考えて落とし込んだ結果。

「違い過ぎる」というのに、何が違いすぎるか?を認めてもらえない。

それ故に、自己評価すら出来なかった状態を脱しつつある
今では感じてます。

それこそ、教えるということは、教える側も一緒に学ぶこと

そういう事と合わせると、ただただ面倒を見るのが上手、というだけでなく
その過程で、私の方も気付いて学んでた
ただ、そこが一瞬かつ、それこそ負担にならないような処理を脳がしてたのか。
ぱっと見が「面倒見が良い、聞き分けも良い、そういう子」にしかならなかったのかなぁ?とも思います。

個人として、感受性に触れるさいに出す、1歳の頃の話。
その頃の母から見た私。

その話も、落とし込むのに年単位かかった=自分自身すらも受け入れて変わるためには、時間を相当に使います。

そうやって、それこそ自分と母親。
身近な間柄だからこその話でも。
数年かけて落とし込んで、ようやく”扱えるようになった、かもしれない”

そんなレベルです。

なのでやっぱりこう、巡り巡って。
知るだけでなく、学ぶという部分も。

大事だから、と改めて、ね。

主張しておきたいかな、と思います。

ということで、最後に参考まで。

それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?