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そう言えば最近夢を見る 6

そう、夢を見るようになったぞおおお!

なのですが。

でも、なんていうかこう、寝覚めは悪いです。何かに追われてるというか、目覚めたら何とも言えない圧迫感だったり、なんたりと起きた傍から気持ちが重いどころではなくて。

恐らく、自身の深い所で、何かしらの強迫観念が働いてる。そういうのは何となくわかります。

というのも、認知を曲げてましたからね。何はともあれ、幼い頃から。

また、夢自体も記憶してる事は少ないわけですが、何かこう責められる、追い立てられるという感じの内容だった程度の把握はしてて。

今回は、見た夢とそれに付随しての色々を書いてみようと思います。

まぁ、ほぼほぼラストというか。夢を見始めたぞ、から始まった流れは一旦終息に向かいます。


見始めたとはいえ

状況は違えど、何かしら責められるというか、追い立てられると言うか。

目覚めた傍から、焦りとも不安とも言えるような、何とも言えない気持ちでの目覚めばかりで、気持ちは重くなってると言うか、何とも言えない感じでの目覚めにはなってます。

それなのに、夢を見れてる事の嬉しさが勝ってるという実情には頭を抱えなくも無いですが。

可能であればいい夢を見たいとは思う物の、ここである作品、その登場人物のセリフが思い浮かぶんですよね。

夢を見るのは、人が安心を求めてるから、というような感じの内容で。

いい夢を見れた場合は、いい夢を見れた事での安心感。

悪い夢の場合は、夢で良かったという安心感。

事の次第というか、心理的な影響、心理学での捉え方みたいなのはわからないですが、これは東京BABYLONという作品で初めて見た時になるほど感が強いどころか。

頭の先から足の先まで電撃が走った!

みたいな、感覚を感じて、あっ…という感覚を持ってなるほどと納得したので、思い出しやすかったりします。

こういう感じで、表現すればこうなる、でも実際の体の感覚として説明するには難しすぎるという事は、何度と無く経験してますし、そういう場合っておおよそ当たってる、相当に時間が過ぎて実は合理的だったと証明される、というようなことが多かったりもします。

という余談を挟んで。

この記事を書き始めた段階で、どうにもこうにも気持ちが沈むわ、意識を閉じさせようとしてくるわで横になってたわけですが、そういう夢に対して色々思考してたせいか、またもや謎のというか。

いやーな夢みちゃったなぁ。

と、偶然なのか、何なのか。

事実は小説より奇なり、という事態が発生したんですよね。ホント不思議。


夢とはいえ流石に

深堀りして解明するには難しい。

それこそ、ファンタジーや創作であるような、夢の中に入れるような人が居ないことには到底かなわないような気もします。当人以外がそれを観測するなんてことは。

そのためか、現状では心理状態や精神状態の影響という事は、見聞きしなくもない。

そのせいか、それが当たり前というレベルになったとしても、精神的に追い立てられる夢というのは、個人としては見やすい方だったりします。

とにかく、抑圧されてただけでなく、自分ですら認知を曲げたり、普通じゃないからと抑え込んだりしてましたからね。

そういう個人的な事情を鑑みると、あくまで個人レベルで見てた夢は、自分に対しての危険を知らせるようなものだった、という事を、今となっては気づくことが出来なくもないです。

嫌な夢で良かったという安心感より、常日頃から感じてる、追い立てられるような、責められるような。

兎に角周りと同じでなきゃいけないから、と自分を抑え込む時に感じてた圧迫感みたいなのを感じてるんですよね。

とはいえ、それだけだと流石に生きては行けないので、偶然という言葉や概念があることから、それを用いて自分自身が意識的にやってる、ということすら無意識的に生存本能が働いての事かもしれません。

という、ちょっとこう矛盾してるようですが、意識出来る部分より、無意識のほうが深いところにあって、意識が強く働いてるほど無意識は観測できなくなるという部分から、そういう見立てをしてるという感じです。

うん。


既に無意識に踏み込んで久しい

何故そうなってしまうのか?

自分自身と向き合ってると、もうこれは必然と言わんばかりに、意識できない部分、自分の深いところ、無意識という部分に目が行くだけでなく、自分の深い所から湧き立つような感覚という部分から、深度や層があるのかもしれないという仮定すら当たり前と言わんばかりにやってしまう。

個人として、自信の感受性に向き合ってると、どうしてもそういう無意識や深層の意識と言う部分とかち合ってしまうので、あくまで感受性の話にする、と言う部分から敢えて触れなかったり、誤魔化して書いたりと言う部分すら多いです。

周囲からの呆れも過ぎて当たり前ですよ。

そういう自分の内面に触れた過ぎたせいなのか。

最近ではブラックホールに親近感を感じて触れてみたいって思うし、おおよそ似た者同士みたいに、自然とそういう思考がうまれます。

ブラックボックスどころじゃないのかもしれません。

ブラックホールに親近感を感じるなんて、何言ってんだ?かと思います。でも仕方ないんですよ。

感受性がぶっ飛んでるせいか、似た者同士、だからこそふれてみたい。それで死ぬならそれは本望。

なんて、感じてるんですから、実際に(笑)

なにも、自身のおかしさを脚色するための言い方ではなく、実際の話ですからねぇ。

有為転変 無為自然

形成す物は常に転じて変化しつづけ、いずれ朽ち自然に還る事で無と為す。

人だろうが何だろうが、そういう物だと思います。

概念だろうが、言葉だろうが、常に変化してますし、歴史の中での人の在り様を見てると時代による背景は違っても、おおよそ人という生き物の有り様って変わらないので、学ぶのは歴史の全体像ではなく、人なのでは?と。

個人的には思います。

ほんとね。

人間だって、切っ掛けから形を成さなきゃ生まれてくる事すら適わない。

また、生まれたからと言って常にそのままではなく、成長し、老い、いずれ死して自然に還る。

なんていうかもう、特別視しすぎなんですよね。

人間だって、この世界の一部。

全の中の個であり、様々な個の集合体が全。世界だっていうのに。

個人としては、類似点という部分からは、学術も、スピリチュアルも、オカルトも、神秘も何も関係ないんですけどね。

そういうのって、西洋での歴史で見ると既に存在したけど、学閥や派閥だたったりがあるものだから、否定して無きものにしようとした流れに対し、科学がそれを成し得たにすぎないだけであって。

かといって、その科学すらも、世界や自然がなければ生まれなかった物なのに、人間が自然から離れて言葉だ概念だで箱庭作ったもんだから、当たり前の事に気づけなくなったと言うか。

個人的におおよそ、今の人の世の流れて、やれやれだらけなんですよ。

なので、どうしようもないなぁ、って自分に言うくらいです。

そして、近しい間柄、話を聞いてくれる人からは、おおよそもう人間じゃないよね。

冗談交じりでもそうでてくる、と。

夢の話のハズだったのに、脱線し過ぎてしまいましたが。

まぁ、そんな感じです。

無意識という部分に目を向けると、幼い頃からの経験だけでなく、それがともなったので自分の感じた、自分じゃない自分になるが、無意識下ですら強く働いた結果、自分自身が歪んでしまってて、責め立てられるような感覚を覚えなくもない。

それが今、感受性だなんだと、色々深く踏み込んだ部分に触れられるようになったので、再び顔を出し夢を見させるという事にもなってるのかもしれません。

何はともあれ。

ワクチン2回目で、1回目ほどの熱はでなかったものの、熱が出た時の体の節々の痛みというのがあってしんどいです。(何この終わり方

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