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書くリハビリ

個人として触れてる内容は、ほぼほぼ……

パっと見だと、誤解されるだろうなぁ(笑)

というものが多い、という自覚すらあるくらいです。

まぁ、自覚があるし、何かしら問題があって言及されれば対応する覚悟を持って書いてるので、内容次第では対応もします。

うん。

とはいえ、書くリハビリと称して。

基本的に、自分に焦点を当てても、客観視という部分から自分の立場を離れがちだったので、自分寄りに書くように意識してからは、結構大きな変化があるように実感してます。

まぁ、それ程に色々あったというか、何というか。

現状、回り回って、10年前に診断されたうつ病に診断が戻ったわけですが、それまでは再通院で全般性不安障害と診断されてたという経験もあり。

そこからの、不安ってなんぞや?みたいな話からしたいと思います。


漠然とした不安

不安障害にも色々あるのですが、全般性不安障害の場合、

原因が特定できない不安、それにより日常生活に支障が出ている。

ザックリ言えばこんな感じで、それを医師が診察して判断する、と。

今でこそ言えるのですが、原因が特定できない不安というのが、漠然とした不安という感じだったと思います。

あくまで、個人としては、ですが。

何でかわからないけど、怖くなる、怯えてしまう、身構えてしまうという感じで、何となくの不安があるからこそ、そういう状態になるし、それが身体症状としての過呼吸や空嘔、血の気の引きとしてでてました。

下手すると、足が震えて動けないとか、震えてて歩き方がパっと見でおかしい、妙、何か体調でも悪いのか?に見られてしまう、と。

そういう状態が続いてたわけですが、

少なからず調べたとは言え、原因が特定できない不安って何?

という疑問は拭えないし、だからこそ困惑するしで、そこが逆に悪影響を与えるようになる、と。

また、そうある自身が自覚できないほどなので、結構しんどかったんですよね。

ただ、診断を受けた当初は、性別の部分でもようやくオープンにしたというか。

もう正に、大噴火です(笑)

溜まりに溜まり切ったものが抑えられず、吹き出し、溢れ出たという状態でもあったので、落ち着いてもいなかったんですよね。また、その分逆に焦りもしてたし、ここでも所謂普通のラインというのが足かせになってたんです。

それが、時間を追うごとに徐々に落ち着いてきて。

そしたらもう、小学生時点で虚無感感じるほどだったので、現実が重くのしかかるというか、気分があがらないわぁ・・・になってしまったので、うつ病になった。

個人の経験として、自覚できる部分の話ですが、診断がそうなった=医師の見立という部分も間違いなくあります。

そうじゃないと、診断書とかの病名は変わらないですからね。

HSPでよくある、生きづらい、生きづらさというのも、そういうね?

病状として日常生活に支障が出ないレベルでの、漠然とした不安、ないし、感染症が収まらない現状の不安が、そういう部分につながってる人も多いと思います。


生きづらさなんてのは・・・

その、漠然とした不安が正体なのでは?と。

今では、可能性の一つとしてそういう考えを持つようになりました。

また、漠然ではなく、気づいて入るものの、無意識的、本能的に目を背けてしまってるからこそ、正体が見えなくなってるだけの不安もその一つのように見受けられます。

スピリチュアル方面の流れで、エンパスだ、次元上昇だ、宇宙の意志だにまぎれてHSPという言葉を見てた時期もありました。

その時点で既に、まてまて、出どころは何だよ?と調べたら心理学。

それ故に、これは過度にハマらないように、としてたら、あんれまぁ。

スピリチュアルだと飛びつく人少なかったのに。

違う表現になったらいれぐいではないか・・・。

個人として抑えてた部分は、見えすぎてて、都合の良い時には驚かれたり、その驚きからの賞賛みたいになるのに、都合が悪くなると多勢に無勢で叩かれるというほどに、

他者にとっては都合がよろしくないものだから。

そういう理由から抑えてたという部分もあるので、それを少なからず制御して使おうものならあら不思議。

やっぱり厳しい物言いになってしまう。

うん。

その、ね?

感染症が流行りだしてから、突然浮き上がったくらいなので。

不安や不満、そのストレスからの逃げに使ってる人は間違いなく多いです。思いますじゃなくて、そう見えてます。

個人の目には、ですけどね。

また、そういう部分を利用しての持ち上げ、という部分も否めないです。正直、心理学上の概念なのに、心理学ではどう語られてるのか?に触れてないですし。

それを、そういう言葉で押し流そうってのは。

そういうつもりがない、ではなく。

そういう言葉(HSP)を知ってるなら、そのくらい予測出来るでしょ?と。出来ないのに本だしたの?それを持ち上げるの?

人間としてどうなの?

正しい、間違いが無駄に跋扈してますが、どちら側ですか?と。

不安や、不満が生きづらさの正体なら。

自覚しないまま、誤魔化すようなまやかしを取り入れてたらダメでしょ?

うん。

今はまだ、感染症がある分、周囲も色々溜まってるので抑えてる方だと思います。

これが、従来通りに戻れば。

泣き言言うな、逃げるにしても逃げてばかりじゃダメ、と。

余裕ができる分、厳しい物言いをする人は、それが戻ってくると思いますよ。

厳しく怒られる、どなられるにしても。

自分のミスや、態度が起因なら。

余裕が戻れば、そういう怒られ方も戻ってくるのが、人間なんですよ。


現実と向き合ってたら

生きづらいなんて言ってられない・・・。

というか、そもそも言わないです。割と真面目な話として。

だってその、ねぇ?

何はともあれ、自分と違う誰かと生活するのが社会ですし、集団生活です。そしてそれは、最小単位である家族ですらそうあるもので。

自立って、親から離れるだけでなく、自分の足で立てるか?という部分もあると思います。

それを、ね。

現実から目を背けてたら、重しになって、立てなくなって当然。

少なからず、自身が生きてきた環境の中では、

抑えてても漏れ出てしまうので、色々良い悪い合ったほど、です。

なので、自分だけを見ないで、他者、環境、流れ、状況、ほか色んな言葉がありますが、様々を見つめつつ、それでもあえて抑えておかなきゃという判断をもって、自分で立ってたわけです。

結局潰れましたけど。

とはいえ、潰れたのはやっぱり、知ってもらえないから、なんですよね。

なんでそんなに仕事が出来るのか?と言われても。

自分でもよく分からないほどに、自然と色々気づいてしまう、見えてしまう、聞こえてしまう、感じてしまうという部分があるからです。

何度となくそれを伝えましたが。

SIRENというホラーゲームのように、視界ジャック=他者の視点で見聞きが出来るという能力持ってる人なんていないのに。

そんなはずはない。ありえない。普通じゃない。

なんでそんなに、違う誰か=私の見える聞こえる感じるなのに、自分の物に置き換えるんです?

ってね・・・。

こういうのが付きまとうからこそ、

生きづらいだ、繊細さんだ、敏感だで、誤魔化すような真似しないでください。

そういうわけなんですよ。

他者が勝手に、無かった事にしようと。

本能的なのかなんなのか、わかりませんが。

聞き出そうにも、感受性の問題から当人が気付けないだけでなく、気付けば間違いなく都合が悪いになりもすると思います。

そういう、ね?

目の前に、現実として立ってるのに、個人が否定されるなんて目にあうから。

HSPって、正しく知ってもらいたいんですよ。

ほんとそう言う否定だけであっても、ネガティブさがマシマシどころか、特盛級で何度もぶつけられますから。

当人だけでは流しきれないんです。

ほんとねー?

申し訳ないけど。

繊細さんとか言って生きづらさに逃げてる人って、そういう、自分に都合が良ければそれでいいみたいな、自分以外の誰かに気を配れてないネガティブさを飛ばしてくれてますから。

言葉で安心したなら、知りもせずに情報拡散なんて真似をしないでください。

と、個人的には思ってます。

うん。

たぶん、相当にまだまだ、漏らすと思いますよー。

だってその、今まで散々抑えつけて来てたような人と、変わらないと感じてますから。


あとがき

最後にバッサリ。

何はともあれ、過去の自分レベルで扱ったとしても、こうなるほど。

受け入れが進んだ今では、更に酷い状態になるので出せません。というのが実際だったりします。

また、こういう部分を過去には「正論言い過ぎで気持ち悪い」と言われた経験もあり。

普段から、あれが悪い、これはまちがい、それはおかしいと兎に角意にそぐわなければごちゃごちゃ言うような人が、

正論過ぎて、とか言うのも身をもって経験済みだったりします。

で、私自身の方は、

正論ってのはそっちの判断だし、自分では言及しないけど、とりあえず見たまま感じたままを言っただけよ?

と。なので、出してしまうとドン引きすらもされます。ハイ。

過ぎたるは猶及ばざるが如し。

幼稚園の時点でそうあったので、過ぎれば良い悪いどちらもあるからと。

悪い方の影響から自分を守るために、また母のアドバイスもあって、抑えつつ持ち続けて来た部分だったりします。

出してしまうと、

目が〇しに行ってる、言葉で〇しに行ってる。

見た目の印象でも、そういう息の根を止めようとする様にすら、見えてしまうようで、こういうのも実際に言われた経験もあります。

だからこそ、言葉は凶器っていうんですよ。

るろうに剣心という漫画がありますが、開始時点で素性が神谷薫にバレた時に言うんですよ。

「剣は凶器、剣術は殺人術、どんなお題目を並べてもそれが真実」

と。

その後に、それでも奪って来た命への償いという部分があるからか、

「そういう真実よりも、薫殿の言う甘っちょろい戯言の方が好きでござるよ」

とも言うんですね。

今となっては、ここがこう刺さったのか、と何となくは思う物の、ここが起因になり、作品にのめりこんでいったわけです。

連載当時高校生でしたが、すっごい衝撃を受けて、鳥肌立ちましたしね。

言葉も同じともいえなくないです。

ですが、甘っちょろい方が最近は過ぎてしまい、ただの逃げ、責任転嫁にしかなって無いように思います。

また、るろうに剣心という作品については、その甘っちょろい戯言が好きだからと、時には逆刃の刀の刃をもって戦う事にもなるわけですが。

そこには、世のため人の為というより。

何はともあれ刃を交えて戦い、かつも負けるも良いも悪いも、奪った命に、散った命。

その命がもつ様々な思いに、今の自分が出来る事をもって、手向けとする。

そういう生き様があるかなぁ、と思います。

また、結局、正しい間違いではなく、何が大事なのか?と今を見つめて生きていくという部分が。

作品が受け入れられる事になった要素、その一つにあるかなぁ、とも思います。

また、ね。志々雄との戦いで剣心は

「時代を作るのは刀ではなく、それを扱う人でござるよ」

力技、暴力をもって事を成そうとする志々雄にそう言うんですよね。

言葉も、ね。同じだと思います。

言葉が時代を作るのではなく、それを扱う人が時代を作る。

だけでなく、歴史すらも紡いでいく。

それが現実じゃないですかね。

ということで。



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