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感じる、とは?一個人の体感として

あくまで、一個人の体感。

とはいえ。

日常のちょっとした事でも「気づきすぎじゃない?」
と、言われてしまうほど。

それ程に感じてしまえば、それ故に出来てしまうこともある。
でも、その出来てしまうことが、ちょっと出来すぎてる。

そういう自身の行動が、様々に「周囲からの言われ」を呼び込んでしまう。

そんな人の、感じる、について述べてみま、しょう!


簡潔に言うと…

日中とか、太陽がある以上、「常に眩しさなんて感じてるわ(笑)」
というほどに。

生きていくためには、何かしらの異常が無ければ、常に目は開いてて、耳なんて開けっ放しだから、常に聴こえてます。

なので。

HSPあるあるで見聞きするような。
眩しくて云々。
臭くて云々。
うるさくて云々。

だから何?しょうもないというか、その程度なの?
です。

それ程に、何かしらを常に感じながら生きてる。

ただ、感覚器官が拾う、それが脳に伝わる、伝わったことで処理がされるという部分のどこかで、抜け落ちるものがある人もいる。

そういう部分の差というか。

生きづらいと感じたときだけ、感じてるなんて、馬鹿馬鹿しいほどに。
普通、ないし、普通以下

その様に感じますよ?

うん。

光について

外に出た瞬間は毎回のように。
強いすぎる光を受けたときと同様に、頭の中がくらっとしますし、視界も下手すれば僅かな一瞬だけ暗転します。

これ、毎回。

自宅に限らず、建造物から外に出た際、天候と日照の度合い次第で毎回です。

通院して診察。
コンビニで買物。
済ませて外に出ても、うわっ…です。

更には、そういう素振りすら見せないまま。
影響を受けながら内心でうわっ!してるだけなので。

気づかれないんです。

流石に、反射という形で強く影響を受けるようだと、頭を振るので気づかれなくもないですけどね。

なので。

眩しさなんて、常に感じてるでしょ?レベルです。

こういう部分もあるので、夜のほうが楽とか言いますし、そこをおかしいと突かれたり、笑われたりするんですよね。


音、臭いについて

小さかろうが常に聴こえてますし、聴こえてる分嫌でも思考が切り替わって、
「どんな物から聴こえて、どんな状態なのか」
一瞬程度でも判断が生じてます。全部ではないですが。

なので。

「聴こえすぎてしまう」になるんですよ。

また、危険ないし、緊急車両のように回避や前もっての心構えが必要というものは、「気づきすぎてておかしい」と、言われます。

助手席座ってても、運転手より気づくの早いですから(笑)
「運転してないお前が、毎回のように先に気づくのは、不思議」
こうなります。

音って、うるさいものだけが音ではないですから。
割りと、普通で当たり前な話。
聴こえてしまう側としては、そう、というだけです。

うるさい、音が苦痛とか。

そこに限りませんよ?

臭いも同じくです。
鼻の穴は常時開放状態。

なので、臭いがするなんてのは、臭いと判断される成分が感じ取れるようなら、嫌でも常時みたいなもんです。


その他について

えー。
集中してしまう方が、頭に室内のイメージが浮かんでしまうほどに。
色々感じ取ってますし、背後だろうが関係ない
です。

音や声なんて届きますし、集中しながらでも、一瞬の思考の切り替わりで受け取ってしまいます。
それ故に、作業に集中しながらでも、「その後の行動」について見積もれもすれば、必要だという判断が生じるなら、自然体で周囲のフォローもします。

それ故に。

「何で、お前はそんなに気づけるんだ?」
ツッコミが入るんですよ。

いや、だって、声聞こえてますし。
話してばかりで作業が進んでない、なんてのは、声だけでなく、作業で発生する音も聞き取りが可能かつ、何をしてるか?が判断出来ますから。

感じ取る、気づく=周囲の情報すら得て、処理や判断、そして行動までの結果

それらに対する、周囲からの感想、なんですよ。

だからこそ、

真面目、良い人、気遣い上手。
なんて言われ方もしてしまう。それだけです。

それに対して、当人にとっては、

それ程に感じ取ってしまうのが当たり前。
なので、感じ取ったままに動いただけ、にしかならない。

ここの差があるので、「過ぎる」って言われてしまう。

気づき過ぎ。
気づき過ぎてて、おかし過ぎ。
おかしさも過ぎる程に当たり前のように動くから、真面目過ぎ。

うん。

そして、悲しいかな。
逆に言い返すことは出来ません。

学校で成績優秀ない人に「アイツ頭良すぎだよな」と言ったその場で、
「お前らが馬鹿すぎ、勉強しなさすぎ」
って言われたらどうでしょう?

イライラしませんか?

言いたいからって言ってしまうと、他者を蔑む事になる。
「だから、言わない選択をしてる」

こういうのも、日常なんですよ。

個人としては、病み具合が良くない。
もう、買い物に出るだけでも、吐き気を覚えるやら、目眩がするやら、お腹が痛くなるやら。
急いで車に戻って「おぇえええええ!」とか声がでてしまうやら。

そうなってるのが現状なので、そうなる以前の日常ですけど、ね。


生きてけないから…

生きづらいとか、言ってたら(笑)

生きていけないです。

実際、個人としてメンタルを病んでる=うつ病という状態が良くないのも、この辺が絡んでます。

違う、という部分からの干渉、そして「否定」によって。

色塗りなんて、風景画を描けば、見えてるからこそ塗れてるのに。
「同じ様に見える、塗れる人に会ったことがない」
というだけで、おかしいだ、ありえないだ言われもしました。
「色々言うのもいいけど、ありえないというのに、色塗りの差に気付いてるのは何故?」
と、問うと一瞬押し黙るんですよ。

それは何故か?
気付いたからこそ「どうしてこういう塗り方なのか?」を尋ねた側だから。

自分は気づかない。
気付いてても「やらない、スルー」
そんな自分たちと、違いすぎるから。

うっせぇわ!

って叫びたくなるような、自分は、自分たちはそうあらない、という他者都合で余計な干渉やら否定やら多いんですよ。

生きてけないって。

生きづらいとか言ってたら。

それ程に、違いからの干渉って多いです。
個人としてはもう幼稚園児の時点でそうありました。

だから、メンタル病んだんですよ。

親ですら、ケアが出来るような環境じゃなかった。
なので、自分で何とかするしかなかった。

年齢1桁で「生き残り」を掛けて、自分はどう変われば良いのか?を真剣に考えて、それを実践してきたわけですし。

そして、そうあるが故の、ガンで亡くなる際の母の話。
なんですね。

1歳時点で、言葉すら理解できないはずなのに、何かを掴んでると言わんばかりの行動をする。
将来が危ぶまれる子だったのに。

幼いなりの生存戦略の中に、「気づきすぎる部分を隠す」が含まれてた。

ただでさえ、その時点で「気づくという要素」は親より上。
親が気づくより、先にこっちが気付けるから、隠せてしまう。

油断するのも当然、なんですよ。

それ程に、ね?

過ぎてるようなのですが。

「生きづらい」とか、へそが茶を沸かす。
呆れて笑ってしまうほどに。

「生きてけねーわ」
なんですよね。


ちょっと厳しく

心理学の概念として出てくる、感覚処理感受性。
それが高い人をHSP。

以前から、言葉は少なからず見聞きすることは出来てました。

それを。

生きづらいって大々的に持ち上げたのは、愚策よね。

そう思います。

というのも、

理由1:感受性って誰でも持ってるから。

そうなんですよ。
眩しいにしろ、うるさいにしろ、臭いにしろ、何にしろ。
一定のレベルを超えたら、周囲と同じ反応をする事になります。

即ち。
程度の差がある、というだけなんですね。
人体の仕組みとしての、感覚器の働き、そういう部分も含んでますし。
だからこその、光や音、臭いへの反応です。

なので、本当に過ぎてるようなら「周囲に居る他者から、違うがゆえに指摘をされる」です。

自己主張する物でもないです。

「否応なしに、過ぎてしまうから。嫌でも、違うって言われます」

程度の差という部分から、同じだって言っても。
聞いてもらえなーい、です。

理由2:体験談程度でも差が見えるのに、調べなかったの?

いや、正直、ほんとこう、ね?
それ程に「違う側の人」と言われてしまうことが不思議。
更には「会ったことがない」なんてのは、社会人になってからの方が聞かれるようになった言われです。

世の中、これだけ、人が生きてるのに。
なんで、人生を歩む先々で、毎回の様に言われてしまうのか?

幼稚園から、小中高、そして社会人。
気づきすぎ、普通じゃない。
ずっと付きまとってました。今でも、全く人と接しないわけでもないので、やっぱり言われます。

「過ぎてますよ」
って。

更には、直近でたまたま声を掛けてきた薬剤師さんと話したら、
「似たようなタイプですよ」
という、告白と共に、立ち話程度とはいえ色々話して聞いても、できました。
それでも、
「お客さん程ではないですけどね(笑)」
こんな感じです。

うん。

そもそも、過ぎてるとは言え。
流せてる方が当たり前。
ただ、気付いた時に、周囲に他者がいるようだと、不思議と自分しか気づいてないじゃん…するんですよね。
気付いて自然と見回しますから。

理由3:持ち上げたのは何故?

正直、わかりません。
というのも、

基準が出来てないから、病院での検査も出来ない。
精神疾患としても、扱われていない。

からです。

基準がないってそういう事、ですよ?

誰かが作った基準で、好き勝手に扱って良い、ではない。
明確な基準ができれば、相応の資格を持った人が、相応の場所で診断、判斷する。

視力や聴力と変わらないです。

今のHSPについての散見される基準って、例えばメガネを作成する際に、
A医院と、B眼科で行った視力テストの内容と、結果が違ってた。

と、何ら変わりません。

うん。

なのでこう、ね?

なーんでこんなブーム起こったんだろうね。

あとは邪推込みで色々。

そんな感じです。


まとめ、というか、最後に

前ほどではない。
とはいえ。

個人としては、「生きづらいとか、繊細とだけ扱う人」には徹底抗戦の構え、です。
正直言って。

また、余りにも幼い、それ故にケアや助けが欲しい、でも一切ない。
それを生き抜くためにかけた自己暗示みたいなのも。

外れました。

なので、痛く刺さるようなことを、前以上に言うかも知れません。

ぶっちゃけ。

心理学だ、HSPだ、感受性だ、以上に国語。
文章の書き方とか、伝え方が、ね。

「他者を見てないですよね?」

終始、自分の生きづらさばかり、自分に都合の良い話ばかり。
というのは、それこそ自分の外側が見えてない、気づけてない。
という、証明にもなります。

周囲に気づけないって、何も感じ取れてないから、気づけない。
感受性がダメじゃん…なんですね。

更に言えば、個人としては、

「現実と向き合ってるから」

人だけでなく物、事、事の流れと様々に折り重なってるのが、日々の生活です。
なので、向き合うのって人だけじゃないんですよ。
気づくのも、感じ取るのも、人だけじゃありません。

物に対してですら、配慮という姿勢を自然と見せてしまう。
だから「お前はおかしすぎる」と、言われてしまうわけです。

まぁ、ね。

厳しく言えば。

出来やしないのに、出来てるといったところで。

嫌でも「他者から出来てる」という評価をもらえる身には。

何も出来てないよ?やめとけ?
だったりもします。

ハイ

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