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あなたはそこにいますか

蒼穹のファフナーというアニメをご存じでしょうか。

敵側の存在が「あなたはそこにいますか」と問いかけながら襲い来る、そんなアニメなのですが。

人の生死を超えて、存在とは、存在するとはどういう事なのか?を結構考えさせられるという凄く良いアニメで個人的には好きです。

ただまぁ、胃薬が手放せないというか。

ああ...って感じで、何度見直しても、いや見直す程に涙腺崩壊するわ、胃がズーンするわ。時に胸が熱くなる展開もありますが、熱くなりすぎてまたそこで泣くみたいな。

シーズンとしては2期のEXODUS 第9話 英雄二人は、ほんとね。他にも色々あるにはありますが、何度見ても、色々感じますわ。

と、アニメの話に触れたところで、紹介しようってわけでもなく。

ただ、絡めて話していこうかな、と思います。

だって、BEYOND見れてないんだもん(´・ω・`)


私はここに居るのか?

いわゆる自分探し、というものではないです。

まぁ、蒼穹のファフナーという作品に触れていた時にふと、あなたはそこにいますか、のフレーズが引っかかったんですよ。割と真面目に。

「俺はまだここにいるぞぉ!!」

EXODUSで一騎も叫んでましたね。

さて、さてさて。

自分探しで無ければなんなのか?というところなのですが、そこに来てようやく、

「あ、自分って意外と空っぽじゃないか」

と、気が付いたんですよ。自分自身で。そして、何の因果かこれいこう、幼い頃の記憶が蓋を開くというか。もともと、そういう部分は薄っすら思い出したりしてたのですが、より鮮明に思い出すようになった感じです。

という事を書いてみたところで、

こう言うのを口にしちゃうとさ。

「自分と違うから」を理由に話を一切聞かず、兎に角否定しか出来ないって人達としか会った事ないので、結構トラウマを刺激されたりもするわけです。

そういう部分からすると、幼い頃から色々あった自分自身にとっては、感動やら色々生むと同時に、トラウマを悪い意味ではなく、いい意味で刺激してくれるアニメでもあったんですよね。

そういう部分でも、印象に残るアニメなんですよね。


積極的な自己否定

蒼穹のファフナーという作品に出るロボットには、搭乗して操作するには結構色々あって、ファフナーと自身が一体化するのを受け入れる事で、手足を動かすように機体を動かせるわけですが、これには色々と難しさがあります。

その辺、1期では色々描かれてて、変性意識=搭乗する事で本来と違う様な性格を示す状態になるのですが主人公の一人である一騎くんはそれがかなり少なく描かれてたりします。

というのも、積極的な自己否定という部分が触れられており、自分なんか消えてしまえばいいと思ってるからこそ、どうにでもなれるみたいな感じっていうのかな。

そういうのが垣間見えるわけなのですが。

何度か作品を見返してるうちに、

あー、道理で...と納得いく部分が自分の中にもある事に気が付くというか、思い出すと言うか。

まぁ、幼い頃に「生き残るためには、自分のままではなく、親や周囲が望む自分にならなければ生き残れない」なんてのを、実感しちゃってたんですね。

時折、HSPだなんだ触れるに当たり、幼い頃の経験を書いたりしてますが、自分で言うのもなんですが、相当に気付きとか感づき、そして今でこそカウンセリングで指摘され納得がいった「現実を深い所で見つめすぎ」というのも当時からそうあったんですよね。

なので、母からのアドバイスで母だけに話してても、話についてこれてないのは気づいてましたし、だからこそ「成長すれば分かる、大人になればわかる」という言い回しは、はぐらかされてるって気付いてました。ただ、一番信頼してた相手でもあったので、それを真に受けた振りで流したんですよね。無駄に喧嘩をしない為に。

そのくらいなので、対応が出来ない父親や、幼稚園なんかでは「子供のくせに!」と怒られ、そうあるから黙ってると「黙ってないで、なんとか言え!言いなさい!」ってしつこく言われる物だからと答えて、更に自爆でドンとかも日常でした。

言えって言うから素直に答えたのに、大人を馬鹿にするな!って馬鹿にされる貴方たちの方が...ってくらいに、対応できなかったんですよね。

そこには、普段から良い部分も抜けてる程と気づいてるのもあって、

兎に角良い部分、悪い部分、指摘する大人たちが全てなかった事にしてくるばかりで、すっごい辛かったんですよ。

そんな状態にすら、持ち前の感受性で感じ取って気づいてたので、蒼穹のファフナーの中での真壁一騎という主人公とは違った形での積極的な自己否定ってのを自分から本能的にやってたりします。

自分じゃない自分、周囲が望む自分になれないと生きていけない。

にわかに信じがたい話とは思いますが、幼いながらも相当に追い詰められてただけでなく、話を聞ける大人が居ない以上そうするしかなかったというか、それ以外見つけられなかったと言うか。

思い出すだけでも、胃がひっくり返りそうになってえずいたり、吐き気を覚えて横になるくらいだし、当時の自分がイメージ化されてその時の自分の気持ちが再度襲い来るくらいにもなるので、未だに大きなトラウマだったりします。

通院でもそれなりに話は聞いてもらえますが、やっぱりこうね。難しいんですよ。トラウマの様に蘇るからっても、その苦しさって伝わりづらいですし、それに苛まれてるわけでもなく、日常での色々のほうが割合が多くなるので、そこがピンポイントで悪さしてるのか?がわからないですし、かといってそれをどう対処すれば改善に向かうか?も難しいんですよね。


自分じゃない自分になる、ということ

ここには、幼い頃というか、物心ついた時点での性別についての自認の問題も絡んできます。

自分の記憶の中で、初めて母に雷を落とされた記憶でもあるのですが、そうあるからこそ、

「あくまでそういう事にしておかないと皆が怒るから。でも私の本音は、好きで男の子の体を選んで生まれてきたわけじゃない」

というのが、一貫して残り続けてるというのも、影響を及ぼしてます。

なので、感受性としての気づきや、感じとり、察しが過ぎてるのでそれを抑えるだけでなく、性別面で選んで生まれてきたわけじゃないという本音と、それでも生きていくために受け入れたからという別の本音が常に葛藤し続けるという、とんでもない状態になってしまったんですよ。

環境における微小な変化、その環境には自他ともに人が含まれるので、人が発してる物も環境の変化として捉えてる部分があり、気づきやすいどころではなかったんですよね。

幼い頃から、よく気が付く、それ故に面倒見が良いとかも、ぼちぼち話してますが、兎に角よく気づくって感じで、気づき過ぎてたんですよ。

それこそ、成長した後の方が「お前はどうなってんだ?」って言うくらいに。

でも、気付いて手助けする、必要であれば周囲の大人を呼んで気づかせる=自分の負担が減るとしか見れない人達ばかりだったんですよね。

その頃からも一貫して、いや、面倒見てるんじゃなくて気づいてるからそうしただけ、って言ってたんですが...

謙遜とか、謙虚としか受け取ってもらえず、かなーり長い期間見過ごされる事になりました!ってね。

実際のところ、社会人になってからも、おかしさとして感じ取ってもらえるようになったものの、話した途端にそんなはずはないそんなのありえないそんなのおかしい、という感じで。

ほんともう、何度説明したかわかんないぜよ...

って感じでもあったので、自分でも偶然って事にするようにしてたのですが、これはこれでまた悪さをするんですよね。メンタル病んで、社会から落ちてからも苛まれるくらいでしたし。

幼い頃とはいえ、よくそれを感じ取って気づいてくれたなぁ、幼い頃の私よ、と、結局メンタル病む事になっただけでなく、未だに引きずる部分にもなったのですが、

実際問題として、自分を否定していないと生きていけなかった

というのは、結構当たってます。多分受け入れてたら、普通にプンプン丸してて、大人しくて真面目な人だったのに...をやってた可能性が拭えなくなるんですね。


とはいえ、それもやむ無し

そう、それは仕方のない事、なんですよ。

それは何でかって言うと、

基本的に人間って主観的で、自分の経験や感じたものが主に意見となってでてくるから

です。それを指し示すかの様に、

指摘される当人の私:私はそういう部分を不思議と感じ取って気づける

周囲:そんなのはありえない、そんな人間会った事がない、他色々

そんな人間って、目の前にいるじゃん?ねぇ(笑)

でも、散々普段から良いも悪いもを、気になったからって突いてきておいて、話が深くなると否定しかしてこないし、目の前にいるお前は違うとか意味不明な事言い出すんですよ。

メンタルやんで引っ込んでる今でも、こういうのは結構ありますし、受容とかは出来ても、理解だったり、踏み込みってのはあまりされません。

余りにも度が過ぎてて、話は分かるけど踏み込みが出来ないって言ってくれる人が最近ね、ちらほら出会えるようになって。やっぱりそうなのかって、ようやく40超えて納得が一歩進んだって感じなんですよ。

個人としては、話を聞いてほしいとは思うんですが、これはもう仕方ないかなぁってのが、散々色々やってきた結果として思う所です。それで、親や親戚にメンタルボロックソになって、相当な度合いのパニック発作を起こすような状態に追い込まれてようやく、感受性が高いんだね、ですから。

言葉のコミュニケーションはキャッチボールだって言えるほどに、相談とか話を聞くになると上手にこなせるわけですが、自分が相談する側、聞いてもらう側になると途端に相手はバットで打ち返してくる、というのも当たり前レベルでされてきてます。

自分主観での正しさの話されるばかりで、相談してる相手である私側の意見は考慮されてないんですよ。兎に角相手は、自分主観の意見を聞き入れさせようとしてくるばかり。

なので、メンタルも病んでしまったという感じでね。

恐らく、本能的に優位性を揺らがされてしまうというのを感じてるからでしょうかね。

人の頭の中を覗けるわけでもないのに、自分の意見の方が一般的だから、普通だから、正しいんだから言う事を聞け!ってね。

これ、色んな人とこう話をしてきましたが、同じレベルで話せた人は皆無です。カウンセリングとして、という部分があるので臨床心理士の先生とは長く話せなかったですが、精神科の主治医では思考が追いつけないからと待ったかけられるくらいですし。

そういう部分すらも私としては、

なんで言葉にしてるのに、理解はしなくてもいいから、受け止めるだけでもしてくれないの?

っていうね。主観が邪魔してて、受容が出来ない様すら、感じとって気づいてますし、こういうのってお前が間違ってるとか言われがちですが、何故?と問い返すと、自分がそう思うからという主観だけの話ばかりになる、と。

話し合いをして、それはどういう事なのか?というすり合わせがなされた事がないんですよ。

イチイチ出すのも面倒なのですが、毎回のように、提案だったり、自分の方から問い返した話を引き出そうという相談での手法だったりが、ことごとく通用しなくなるんですよね。

まぁ、自分主観で否定しにきてるわけですから、受け入れるではなく、受け止める事すら出来ない=言葉のキャッチボールにならないってのを嫌って程...。

ふう。


最後に

ということで。

蒼穹のファフナーというアニメ、作品を通して、自分自身が感じたもの、気づいた部分、類似性みたいな所から、自身の感受性と経験について触れてみました。

何が悲しくて、自分じゃない自分にならないといけないなんてのを、5歳くらいで自覚せにゃならんのかね?って感じでね。

そういう意味では、作中で幼い頃に自己否定をする切っ掛けがあった、真壁一騎ってキャラクターは被る所が無きにしも非ずな感じです。

自分なんて消えてしまえばいい

そう思いながらファフナーに乗ってた一騎くんには、色々感じます。また、個人主観が過ぎるだけでなく、ファンの方には申し訳ないけど、相当に似てる部分があるというか。

積極的な自己否定をするからこそ、自己犠牲に走りがちでもあるけど、そこにはそうある自覚って無かったりするんですよね。

真矢ちゃんが心配するのもわかるわぁ。っていうか、そうあるせいからなのか、真矢ちゃんの心配や心情の変化の方に感情移入しがちです。

まぁ、ね。

あなたはそこにいますか、というのが付きまとってる分、存在とか命とか、色々深くて良いアニメだと思うので、触れてみるのも良いかも知れませんよ。

ただ、結構きます。胃に。悲しいシーンも多いですしね。


あとがき

ということでー。

いつかはファフナー絡めて触れてみたいなぁ、と思いつつ。ようやく実行する日が来たと言うか。

「祝福」というキーワードもあるのですが、これは作品を知らないと、なんのこっちゃ?が過ぎるので敢えて使わないようにしました。

まぁ、幼い頃に私も「自分じゃない自分になること」を自身に課しただけでなく、相当に自己暗示をかける状態でもありましたし、失敗は何度もしたので、その度に練度というか、感じとれる事に対しての見つめ方は反省して次に活かすという状態で。

また、失敗をした時には、「今以上に違う自分、周囲に合わせた自分」という意識もしてたくらいです。

そう言うのを長く続けてきた分、ちょっとあらぬ方向に磨かれた、伸びたというのは今の自分から感じ取れなくもないですけどね。

うん。

にわかに信じがたいかも知れないですけどね。

自分じゃない自分になるはやってたし、未だに尾を引いてます。

そのせいか最近は胃が痛くなりやすくもあるし、過敏性腸症候群再びで毎日のようにお腹が下ってます。

通院してても、診察後には自分ではない自分になってた事を感じてしまい、胃が痛いやら一時的にお腹が痛くなるやら。

まぁ、その、ね。

おおよその人が感じ取れない物を感じ取ってしまうってのは、色々難しさがあるんですよ。

ということで、今回はこんな感じで。

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