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HSPではなく、それは自分だから。

HSPだからとか、HSPな自分とか。

いい加減止めなされ。

それはHSPだからではなく、自分だからであって、自分の持ち物がそうさせてるだけ、ですよ?

何も特別そうあるわけでもなく。

周囲と同じ、普通と同じこともあれば、影響を受けすぎる、感じ取りすぎる事もある。

ただそれだけなんですよ。

でね?

幼稚園くらいの幼い子供がこうあるじゃないですか。

「なんでそんな事を言ったの?」と聞いたりすると、

「お父さんが言ってたから。」

「お母さんが言ってたから。」

HSPだからだなんて、それと同じです、よ?

子供が外でやってしまう、親の行動を思わぬ形で真似をしたがための、普段の行動の露呈。

ほーんとこう、便利で楽になれたがゆえに、HSPだなんだ以前に。

「考えることを放棄してるのでは?」

という、とんでもない状態なんですよね。そういうのって。


HSPだからこうある?

まてまてまて。

それ以前に、誰しもが一人の人間であり、個人です。

HSPだから、特別そうなるってのはですね?

感じ取り方の差の部分で、明らかに周囲から出る杭になった時。

このくらいでしかないですよ?

HSPだから疲れるとか、大変とか、あーだこーだって言うのは、それは個人だからだし、疲れるのも大変なのも、人間であれば誰しも起こりうる事です。

いいかげんにしろ。何度でも言う。

子供じみた真似にHSPという言葉を使うな。

ふざけるな。

甘えるな。

本気で困るし、幼い頃から苦労してるし。ストレスが起因になる、体の症状も抱えかねないんですよ。

なんでこう、誰でも陥ってそうな話を、自分がHSPだからそうあるとか下らない話してるんです?

なんの特殊性も無いって自ら証明してしまってる事に、気付け?

普通の人と変わらないし、敏感でもなければ、繊細でもない。

ただただ、生きづらいという言葉に重ねて、悲劇のヒーロー、ヒロインしてるだけ、です。

風邪引いてる人が、薬のんだから、マスクもしてるから、厚着してるから、と。

そうやって出かけてくるだけでも、休んどけよ!だったのを、今のご時世でやってしまってて、ふざけんな!というのと変わんねーです。

風邪っ引きが「ちゃんと対策してるから」というのと、

「自分はHSPだから」というのはね?

○○だからという、それを言い訳に、自己都合を正当化してるという部分は一致しますから。

止めたほうがいいですよ?


ホント楽したがりね

便利で楽が溢れてて、それを当たり前に享受してるから。

少しでも楽して、良い思いがしたい。

そういう人間としての甘さ、弱さに、都合がいいからHSPという言葉を使ってるだけです。

「自分はそうじゃない?」

それなら、正しく知った上で、周囲の人とコミュニケーションもとって、時には協力も仰いで。

何度と無く繰り返して、少なからず個人でできそうな実験とかやってますか?

「やった結果、嫌でも突き抜けて、協力者共々頭抱えるばかりですよ?当人すらも。」

なんで、こうなってしまうのか?不思議と、周囲には出来ないレベルでの検知や感知すらしてしまう。

相談に乗らなくても、「何でそんなに他人に寄り添えるのか?」と。辛そうにしてたから、声をかけた友人や同級生からは何度となく、人が変わろうがそう言われてしまう。

「いや、自分にとっては、普通の事をしたまで。」

自分にとっては、それほどに辛そうだと感じたから、寄り添ったまで。」

そういう感覚を持ってる人からすると、HSPだからじゃないんですよ。

自分だから、自分の持ち物がそうさせるから。

例えどんなに違うだ、ありえないだ言われても、自分にとってはそれが普通のことだから。

勘違いするな。

HSPだからじゃない。

自分自身すらもちゃんと掘り下げた上で、良いも悪いもを受け入れて、自分自身で取捨選択もして、取り扱う。

そういう自分の持ち物だからだ。

生きづらさ?

当たり前の様に否定を受けるし、目の前で見たからこその周囲からの問いかけなのに、人格否定や存在否定と言わんばかりに、人間としてありえないとか、普通じゃなすぎて人間じゃないとか

それほどに、出る杭は打たれる、をされてしまう

そういうのなら、生きづらさに当たるかも知れない。

でも、嫌でもそういう扱いを受けるので、そのうち慣れて「またコレか」レベルの話ですよ?

ほんとこう、何も見えてない、楽をしたいが故に自分から自己弁護に走る程度の人が、

多すぎて、呆れ返りますのよ?


余りの酷さにもつ懸念

精神疾患なんかも、個人を見てもらえず。

症状や情報という上辺で決めつけられて苦しんでしまう。

「そうなってしまうのも、当たり前だよなぁ、HSPという言葉がこんな状態だと。」

それほどに、酷いです

自分だけじゃなくて「周囲にいる人達」との比較も出しなさいな。

敏感にしろ、繊細にしろ、人間同士で比較されてしまうので、周囲と抜きん出てない限りは、むしろ何も言われずに「安心して過ごせるから」

生きづらさだって、誰しも抱えてるものだし、人を集めてディスカッションして、自分から言わなくても、否応なしに、満場一致と言わんばかりに、

「あんた、それって辛くない?」

って、言われるから(笑)

辛いも何も、やらなきゃいけないことはある。

それどころか、否応なしに気づく部分には、人としての振る舞い、大人としての立ち居振る舞いという部分もあるので、ね。

自分を律する、戒めると言うこともやってしまいます。

自分に厳しい、自分にストイック、そういうのも過ぎると言われますが、それも当然なんですよ。

ホントこう、精神疾患も認知されるようになったのに、症状やわけかんない話題性という情報から、勝手に決めつけられて、当事者や患者が苦しめられる。

そうあるからこその苦の部分。

HSPだったら気づいてフォロー出来るような部分なのに、寧ろ逆の事をやってしまってる。

話題性からの情報や、自分しか見ないがゆえの悪。

精神疾患であれば「貴方のため」と口でいうだけで、そういう根拠が不明な情報を振り回して、寧ろ心の傷を踏みつける、踏みにじるという真似をする周囲の人たち。

それと同じことやってんですよ?今のHSPブームって。

頭痛いです。

なんでそんなに言葉ばかり見て、それで練られた本質を見ようとしないんですかね?


ん。

あー。

でも、やめときましょ。うん。


あとがき

ホントね?知識つけとかないと行けないと言うか。

精神医学なんかも、長い時間をかけて「脳」という部位から派生してきてるんですよ。

心理学なんかも恐らく、ね。

なので、ユングやフロイトを調べてみると、心理学者だけでなく、精神科医とか、神経病理学者とか、そういう言葉も出てくるわけで。

ただ、時の流れの中で様々な知見が得られただけでなく、脳の動きを可視化出来るような機器も開発されたりもして。また、専門性という部分では極めて研ぎ澄まそうとした結果、専門性を高めるために分岐していった、と。

とはいえ、そういうのもまた、行き着くところまで行くと、関連性も見えるようになってしまい、それぞれが単独で存在しながらも集約するという、1か0か?ではなく、1と0どちらもになる。

その様に感じてますし、個人としてはそう見ても居ます。

二兎追う者は一兎も得ず。

でも、それは付け焼き刃とか、その場しのぎという、目の前に思いがけない形で複数あるからと、いきなりどちらも取ろうなんてのは無理という話なだけで。

経験を積んだり、回を重ねることで、得られたものから、片方を置いながらももう片方も得るということが出来てしまう。

それも、人間という、知識や言葉を扱えるからこその姿だと思います。

というか、正直HSPを自称したり、それを扱って何かしら作ったりって、何を目的としてるんですか?っていう。

まだまだ研究の途中だし、診断基準をもって病院で・・・というような完成形も出来てないものですよ?

なので、今後は予想を超えた話になり、過去に書いてたものや、過去の作品なんかは黒歴史になりかねないというのに。

人の役にと言いつつ、自分が主体というのは、役に立ちたいなんてのは建前でしか無いですよね?っていう。

自分が目立ちたい。

自分は特別だと思いたい。

だからHSPという言葉を使おう。

そういう心理も見え隠れしてるというのに、ホントこう自分のことを扱う割に、自分が全然見えてないというのは。

改めた方が良いと思います。

それでは。

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