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真面目?優しい?

なーんでかねぇ?真面目だ、優しいだ言われてしまう。

個人として、そういう事をよく言われるという事を話してますが、これがまた「それが過ぎる」と周囲の人に見られてしまうからか、

「何故そこまでやるのか?あるのか?」

と、問われもしてしまうのですが。

「いやー、目に見えてきづくだけなので」

あくまで個人としては、そうあるタイプ。とはいえ、実際に目に見えて気づいてしまう、目に見えないものも引っかかるという感覚が発生することで気付かされる。

そういう部分が行動に出る原因になってたりします。

うん。

実際、そうあるように見えるとはいえ、そういう人はどうあるのか?をあくまで一個人として上げてみようかと思います。

まぁ、個人としては、自分が真面目だとか、優しいとか、そうは思ってない。でもそういう人と見られてしまうという、ね。

そもそもの話として。

幼稚園で言われてたことが、よく気づく→真面目、面倒見が良い→優しい。こういう変化をしただけに過ぎないだけでなく。

その頃から言い分が食い違ってるんですよ、ね。


人間が行動するに当たって

例えば、トイレに行くという行動。

自然とそう動くと思いますが、「それは何故?」で振り返ると、意外と突っ込んだ部分まで見えてきてしまうんですよ。

そもそも、トイレに行くというのは、人間としての生理現象です。

そしてそれは何が原因なのか?

膀胱に、吸収されなかった水分他が溜まる事で、そろそろ排出しておくれよ!と体が信号を発し、それを脳がキャッチするから。

というような、人体の仕組みが出てくるわけです。

それをまた踏み込むと、「生きるのに水分が必要だから摂取してる」というね。

生きるために水分を摂るし、かと言って全部吸収されず、余剰分は排出される人体の仕組みがあるから、

「トイレに行く」

そんなの当たり前じゃん!って話ですが、これは前提としてのたとえ話です。

当たり前のような事であっても、そこには生きるために必要な行動や、人体の仕組みもあるからこそ、という根本が出てくるんですね。

そして、個人としては、真面目だ、優しいだ、気をつかうだも、これと同じなんですよ。


どうしても気づいてしまうから

それこそ、目に見えなかろうが引っかかるという体の感覚をもって、気づくことすらあるほどに。

正直、自分で言うのもおかしな話ですが、

「相当に気が付きすぎてる」

また、下手するとクセをもってる本人すら気付けないような、

「細かいクセ、というような細部すら確実に気づく事もある」

全部が全部完璧に、ではないとは言え、そういう部分が明らかに”いわゆる普通というラインは抜けてしまってる”。

なので、変な話、それ程に現実の状態について知れてる、とも言えます。気づくというのを検知するに置き換えると、人間なのに機械レベルでの検知性能を発揮することすらあるほど。

屋外でガスに気づいただけでなく、検知器を持ってくれば、当たってやがる。

なので、気付ける=知れる情報が、多くもなれば、深くもなってる

そういう状態なので、ただでさえ気付けない側の人が、パっと見で判断しても的外れが過ぎてしまう。そういうことにもなります。

まぁ、気づくというだけでなく、気づいたら即座に処理された上で、

「そう動く必要性がある」

という、判断までしてるんですよ。なので、気を遣うとか、真面目なのではなく、

それをしておかないと少なからずトラブルが発生する。それが分かってるから潰しに行く。

今まで余り出さなかったのですが、それほどです。

そして、それを見た周囲が○○過ぎの形で、真面目だ、優しいだ、気を遣うだを当てはめるだけでしかないし、それ程に気付ける=周囲が気づけて無くて一方的に当てはめてるだけ、というのも・・・。

気づいてるんですよ(´・ω・`)

なので、真面目だ、優しいだではなく、現実から読み取れてしまってるから、動いてしまうんですよ。

それこそ、トイレに行きたいという感覚を覚えたから、トイレに行くというのと変わらないほどに。

HSPについての話をする際に、個人として出来てる事を、周囲の評価を元に話してますが、これが自分視点=主観になると。

「出来て当たり前の事をやってるだけ」

うん。

なので、自分がどうとか関係ないんですよ。

個人として、自然と行動してしまうほどに当たり前にやってる。

それが、周囲から見ると「過ぎる程」にある、そう言われるだけ。

うん。


不思議と過ぎてしまう、普通や当たり前

ホントこう、幼い頃からこれでしかない、です。

幼稚園で褒められても「大人たちが教える優しさって、こういうことじゃないの?」と、逆に問い返してた程、です。

言い換えれば、褒められるほどに出来るレベルが、その頃から「自分にとっては出来ること」だったんですよ。

そして。肝心なことなんですが。

過ぎるほどに人を把握も出来るので、他者に振り回されるなんてのはまずないし、です。

影響を受けるとすれば、深い所にある、根本になりうる感情の方、です。

だからこそ、建前の裏の本音にすら気づいてしまって、相手を驚かせもする、と。

そんなはずはないのですが、出来すぎてしまってるので、読めてるとしか思えないという誤解すら生まれます。だからこそ、何でそんなに気付けるの?相談に上手く乗れるの?なんですよ。

相談に乗るって言っても、普段どおり聞いてるだけ、です。

ただただ、話を聞いてて気づく、と言う部分も過ぎてしまうし、話の中で出てた第三者に対し、話の内容には無かった細かい部分=表情や言動を言い当てたりするほどに気づいてしまう。

それを普通とか、当たり前とかでやってしまうだけ、です。

だからこそ「ありえない」と言われるのですが、それって周囲にいる人達には出来たものじゃない、というだけでもあります。

そして、こういうのも個人の違い、なんですよ。

ただまぁ、過ぎてるどころか、おかしいレベルなのは自覚してますし、自覚できるほどにあるだけでなく、そういう経験が日常茶飯事レベルで発生するので、

「自分自身のことなのに、おかしさの余りに困惑すほど」

それ程の物が、個人としての、真面目さや優しさと「他者から判断されてしまう部分の正体」だったりするんですよ、ね。


集約すると、よく気づく、それだけ。

まぁ、おかしな程にあるというだけでなく、そうある自分自身が不思議に思ってしまうほど。

ただただ、気づいてしまってるだけなのよ・・・。

ただ、そういう部分から様々に派生するので、

人の感情によく気づく→寄り添える→優しい。

それが別の形になることで、気遣い上手だ、相談上手と言われもするし、それが理論的になれば、教え上手、と。

飲み会とかだと、そろそろおかわりほしいなぁ、というのもある種の感情みたいなものなのですが、そうなる前に、余計に気遣いすぎない程度で、程よく気づく→声をかけた上で、ビールを足したり、焼酎であれば作りに行ったり。

でも、それもまた、人が見せる変化の些細過ぎる部分に、気づいてるだけ。

それも様々なケースでそれを見せるだけでなく「気づいてる素振りが一切観測できない」ので、気にしすぎとかは言われません

気を遣いすぎだ、になるんですよ。

周囲へのサポート、お世話みたいな事をやることが多いので。

思い込みは良くないというのは、自分がやらずとも周囲がやらかしてるからこそ、必要がある場合は声掛けすらも必ずやるくらいです。

なので、気を使いすぎになるし、それは幼稚園時点でのよく気づく、面倒見が良いという評価と変わらない、と。

だからこう、真面目にしろ、優しいにしろ、

「細かい所に、何でかきづけてるだけなんだわ」

という、言い分になるものの、同じく出来ない人だらけで、そんなはずはない、ありえない、自分たちには出来ない、と。

また、人からの評価って、人それぞれで違うだけでなく、同じ人であっても事の次第、状況、前後の流れという様々な変化に伴って変わります。必ずね。

そして、ありえない、そんなはずはない、というのは。

評価する側の気分や、状況次第で、

お前って凄いな、お前ってやっぱ変だ。同じことやってるのに、ポジティブ側にシフトすらする、と。

余りに気が付きすぎて、個人レベルどころか、全体を含めての環境や状況にすら対応することも多いです。それこそ、集団に所属してなれが出来るほどに、その対応度は上がっていく。

なのでこう、余りに気が付きすぎて、環境そのものへの対処すらやってしまうだけでなく、そこまでやるから、自分が影響を与える事にすらなります。特に、人が絡む場合はそんな感じ。

ただ、流石に自然には勝てないので、それらからの影響は「受けたことに気づきやすいだけ」という。

って、改めて自分で整理して書いてみると、トンデモナイ話になるというか。

「これは人によっては胡散臭いどころじゃないなぁ」

と、思いもします。でも、それが実際、実態なんですよね。

職場という場所だと、ちょっとした所に気づく=ヒヤリハットの事例になりそうな部分に、事前に対処してしまうので、

ヒヤリハットに対する、危険予知でもやってるのか?と。

「あ、いや、気づいたんで・・・」

気づいたからって、そこまでやるなんて真面目だなぁ。

「いや、気づいただけでなく、それをやる必要があるみたいに判断もしちゃってるだけで・・・」

ホントお前はおかしなやつだなぁ。

「おっけー。いつものことではあるものの、面倒くさいなぁ(心の声」

こんな感じなのですのよ。


あとがき

ホントこう、ただただ気づいとるだけなんやで!

そして、気づいた時点でやる、やらないという対処、対応、行動の必要性みたいなのも判断しきってるんですよ。

細かい所に気づきするからこそ、ある意味厳密とも言える判断、取捨選択を行ってる、と。

やり過ぎと言われるので、同意の元実験してみたら、

「ほら、言ったとおりでしょ?」

みたいなことも続いたりします。全部ではないですけどね。

なので、エスパーかよ?みたいな話も出てきます。冗談交じりですが、余りに度が過ぎるからこその、冗談交じり、みたいな感じで。

そういう事も多いので、気づくというより、現実そのものから気付かされてると感じてしまうことすらある。

気になる、気にするというのは、過ぎてしまうからこそ、自分が影響を与えてしまい周囲がそうなる事がほぼほぼです。

また、それ程なので、

私「何か問題でもありますか?」

相手、周囲「いや、問題はないんだけど。出来すぎ」

こういうやり取りは社会人になってからは特に増えました。押し付けられるだけでなく、自分から気づいて引き受けてやりもするし、それは相手の立場になって考えるという客観視が当たり前のように出来るからだったりします。

まぁ、気づきすぎるだけでなく、それが深いからこそ、相手の立場すら容易に取り込む程=人の感情を取り込みすぎという、カウセリングでの指摘にすらなる。

でも、カウンセリング自体も能力どうこう以上に「違う人がやるからこそ」。

気づくレベルの差という部分から、周囲から影響を受けすぎてるようにしか判断されない。

それ程に気づき過ぎてるだけなんですよ。度が過ぎてるので、え・・・?という困惑になるほどに。

気付ける側からすると、それ程に無自覚、無意識から色々漏れ出てるんですよ、人間って。という、人の外に居るみたいな発言も当たり前のようにやってしまうだけ、です。

こういう部分も、気づけてるだけでなく、言語化という部分から、気づいたことを言語化してるだけに過ぎないのですが、そうすると余計に「過ぎたもの」にもなってしまうんですね。

不安定な物に対してすら気づくし、だからこそ、安定させよと並びを整える、高さを調整する、足元であっても当たり前に気づいて、気づかない人が躓かない、踏んでバランスを崩さないように、ということまでやってしまいかねないです。

ホントこう、細かすぎるんですよ。

そして、こういう話って最初から言った所で胡散臭いので、遠回しかつ、徐々に小出しにすることで、説得力を上げるというのも、過去の経験から身につけた術という。

って書いてると、自分がまず「うさんくせぇ!」にすらなってしまう。

自分にも客観視が働きすぎてるんですね。

そろそろ化けの皮を云々も、布石みたいな感じで、狙って言ってるだけ。それ程に幼い頃から、おかしいレベルで気づいてるだけなのですが。

まぁ、そういう人って会ったことがないだけでなく、周囲の人達=いろんな年代かつ、自分より人生経験を確実に積んでそうな人からも言われてしまう。

そういう部分からは、困惑すらも付きまとうんですよね。

過ぎてるもなにも、過ぎてる側だからこそ、見えない部分は見えとるし、気付けない部分に気づいてるだけ、という割と当たり前の話もするのですが。

真面目すぎとか、優しすぎとか、頑張りすぎとか、気を使いすぎという、おかしなほうに捻れてしまうんですよ。

ホントね。

評価する人たちが○○過ぎ、過ぎって当たり前の様に言うのに、「過ぎ」は受け入れないという奇妙な話です。

と、長々と書いてみましたが。

優しいとか、真面目とかは、「人の様、様子」という外から見た状態から生まれた言葉でしかないので、本人に確認すると違ってるなんてのは、当たり前だと思いますよ。

ということで。

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