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違うってどういう事なのよ

まーた始まった、と、自分では思いつつ。

それでもやっぱりこう、ね。色々触れてる内に、懸念というのは湧いてしまいます。

うん。

多様性という言葉とともに、「皆違って皆良い」という、ね。

キャッチフレーズとも言えそうな、言い回しも見聞きしてました。でも、違いって何も、良いことばかりでもなく、違うからこその悪い部分は必ずあります。

また、ね。

そういう言葉が無くても、イジメた側が何でか配慮される。自死まで追い込んだのに、という事件は過去にも発生してたりします。

文字だけだと読みづらい。かもしれませんが探せばYoutubeなんかでも、暑かった動画がたくさん出てくると思いますので、そちらでお願いします。

多すぎて、選ぶのも難しいので。

とはいえ、相当に凄惨かつ、加害者側だけでなく学校対応にも問題がありましたし、様々な意見や憶測も飛び交いました。なので、

人によっては不快どころか、傷にもなりかねないので、ご注意ください。

まぁ、この事件は結構すごかったです。いやー、ほんとこの時だけじゃないですかね。

加害者側が「自分たちの方が被害者」というようなビラを校門前で配っていたとかもありましたし。

うん。

まぁ、これは酷いケースなので、これだけを例に上げるのもなんですが。

違いを良いだけにしてしまうのは、問題あると思いますよ。


違っていいからこそ

イジメをするしないという、違いも認められるべき。無くならないのだし、自分たちだけを悪く言うのは人権侵害だ!

まぁ、ね。

自由も権利も形骸化したというか、実際問題として、他者への配慮や迷惑なんかしらないと言わんばかりに、自分しかみえない、そういう人って増えてると思います。

そもそもですよ。

違いって良い悪いだけでなく、得手不得手だったり、育った環境の差だったり、生まれもったものだったりで、それ自体が良い悪いなんて言えるようなものでもないと思います。

イジメなんかも、違うことでイジメを受けることはありますが、それは違うのが理由なのではなく、人としてという部分の問題の方が大きいと思います。

また、不得手という部分では、克服するということすらしないまま、言葉に甘えるかのように楽をさせろと迫る人も必ず出るでしょう。

うん。

なんかこう、耳障りの良い言葉を使ってるけど、後々に問題になったり、寧ろ悪用すらする人が出るというのは、今までの社会の変遷からも、十分にありえる事だと思います。

というか。

違いってそもそも、自分がまず良い悪いを受け入れて、自分で向き合えないことには、他者に対して要求すらできないと。

個人的には思います。

うん。


そもそも、違いとはなんぞや?

ホントこう、様々な言葉が飛び交うだけでなく、表面上だけ、ぱっと見だけが良いフレーズも飛び交うのは、違いに限った話でもないですが。

「そもそも、違いって何よ?」

と、問われるとおおよその人は即座に、

「違いは違いだ!自分とあんたは違う人って事だ!」

という感じで、違いについての深堀りができてない分、表面上から見て取れる違いにしか言及出来ないと思います。

個人としては、余りに違いすぎると幼い頃から言われてた分、そういうのも日常とか当たり前レベルなので、

「うん、そうだね。それはわかるけど、私と貴方は何が違う人間なの?」

という返しをするだけなんですよ。違ってる人だなんて、そんな物言われなくてもわかっとるわい!レベルではなく、

「何がどうあって、どのような差の部分がお互いとしての違いになるのか?それを今すぐ説明してちょうだい」

という感じでツッコミが鋭くなるだけだったりします。

そうなんですよ。違いといった所で、人の違いは様々に有りすぎます。そして、その多すぎるが故に、違いに付いての深堀りがされないまま。

下手すると多勢に無勢という感じで、少数派になると、不利になる。

まぁ、こういうのも言い換えると、イジメです。うん。

違うとは言え、何がどう違うのか?

そして、その違いはどのような問題になるのか?

それはお互いに妥協できるか否か?

という、ね。

違いの部分が、自身の不利になるようだと、感情を爆発させたり、攻撃的になったりで、無用な争いを生む人も結構多いです。

また、イジメがニュースになると、事の次第以上に加害者叩きが強くなってきてるというのは年々感じますし、そういう部分も個人が持つ正しさや正義に対して、違いを見せてる人への攻撃でしかないです。

大事にはならなかったとはいえ、単純なイジメだけでなく、学校や社会の仕組みとして少数派どころではない単一の一人という経験からは、

「ねぇ?これってイジメじゃない?」

とかいって、逆ギレされるという経験も、ね。敢えて、そうなるだろうなぁという予測に対しての確認、実験としてやってたりします。

全部が全部そうならない。

確かにそうですが、レアケースこそ大事件になりかねない。

大事件になるだけでなく、色々出てくるからこそレアケースという感じで、冒頭でリンクをはった事件では、色々出てきました。

違いとか、違うという言葉は、多岐に渡るだけでなく、問題点も様々に差があるものです。

それを、ただただ「皆違って皆良い」というだけだと、必ず悪用したり、誤解釈どころか、そもそも人としての問題すらも都合よく扱う人って絶対に出てきます。

現状の世界情勢での問題点も、ね。

違いについての議論以上に、力技で取り込もうという行動だと。

思います。


耳障りの良いフレーズの罠

個人としては、学生時代に流行りだなんだでの色々ないわれも、耳障りの良いフレーズというのが結構関係してたりします。

流行る=そういう言葉が多い。でも本質そっちのけ。

大体このパターン。

感受性の差の部分で、ただただ売れるからという理由だけですよね?というのは、感じてしまうんですよ。

なので、個人としては流行りに乗らないという事すらも、イジメの材料にされたりしましたし、それがオタクバッシングと重なって、結構ひどい時期もありました。

まぁ、そういう経験はあれど、それ所以に敵視とか問題視してるのではなく、言葉の受け手側を問題視してたりします。

音楽とか、そういう歌詞に共感したと言いつつ、流行ってるのに聞かないからと押し付けられる。

そういう苦労については理解を示さないのに、歌詞で歌われる苦労や辛さはわかる。

なんじゃこりゃ?というのは、相当に多かったんですよね。これって、結局受け手側が、都合の良い部分しか見ない、見えないという問題を抱えてる

そういう事の表れかな、と思います。

歌詞には共感してるのに、自分たちの行動に気づけ無いってどういうことだよ?

と問えば、

それはお前が流行ってるから勧めてるのに、聞かないから、手を付けないからだ。

ふーん。でも、こっちの趣味はどうなんだい?という部分は、問題は無いけどよく思われないだけ、それがあるから無理強いはしないし、それどころかしなくても、周囲は自分たちから踏み込んできて、蔑むわ、バカにするわ、でしたからね。

そして、オタク文化は今では受け入れられたとか、時代が変わったんだからとか言われますが。

それが受け入れられる、否定されるではなく、主流とか多数派じゃなければ、人は時としてイジメや差別という行動にでるという話をしてるという事になります。

まぁ、この辺多数派に迎合する、流行ってるからと触れに行こうとする人たちは、無意識の内に自分が否定されてるという誤解をするんですよ。

なので、何がどうあれそういう報道がされ、そういう流れがあるからって外野から石投げてたらイジメと変わらないよ?とか言うと、

逆ギレしちゃうんですよ、ね。

そして、こういう部分が、イジメや差別が無くならない理由。という話にもなります。個人的に言ってるだけでもありますが。

ホントこう、ね。

人間楽したがる生き物なんですよ。


最後に

多様性とか、皆違って皆良いとかもいいですが。

根本の問題として、

人それぞれ違うということはどういうことなのか?

何を生んでしまうのか?

それに対処するにはどうすれば良いのか?

ただただ違うとはいえ、軽く流すだけだと全然解決になりません、よ?

人が見せる違いは様々ですし、それぞれに良し悪しがあれば、それすらもまた別な部分では同じ人でも、イジメという所に固定しようものなら違う意見が出てくる、と。

そんな簡単に、違ってても良い、だなんて言えないんです。

良かろうが悪かろうが、違いは個人の悩みの元にもなりますし、違っても良いんだからとか言われる方が、傷ついてしまう事態になりかねません。

また、そこで強く出れない人は傷ついたまま、無理に周りに合わせてしまい、結果として別の事件に発展する、と。

少年犯罪なんかも、即座に少年法がどうこう言われがちですが、それだけでは済まない、表に出てこない部分。

家庭環境や、虐待という部分もありますし、突き詰めれば親すらも親の親から受けてたからこそ、同じ過ちを犯すという事も結構多いです。

とはいえ、そう簡単に解決できるものでもなければ、それこそ人それぞれ違うので異なった意見も出てくるでしょう。

そういう違いを全部良いだなんて、良い悪いを一緒くたにして押し流すんかい!としか思えないんですよね。

そもそも、多様性とか、キャッチフレーズ地味た「皆違って皆良い」ではなく。

そんな言葉なくても違いがあるのが前提ですから、違いがあるというのはどういうこと?と考えるようにしないことには、寧ろ悪循環を招くだけと思いますよ。



あとがき

ピーチク、パーチク。

ホント囀りやがって!という感じですが、どうにもこう、幼い頃に仕掛けた蓋が効かなくなって開いてしまったので。

痛い所を突く私、復活です。というような感じになってきました。

まぁ、そういうのは置いといて。

HSPなんかもそうですが、自分がどうとか、個人や集団の思うHSPとかそんな事以上に、色々経験もしてれば、した分だけ見る聞く感じるしてるでしょうし、

「現状の世の中にある問題点。その問題提起をしたほうが建設的では?」

そう思います。

そうして問題提起して、考えてもらうように世の中に働きかければ、今の自分の生きづらさが解決すると思いますよ?

それなのに、HSPな自分の主張とか、心理学上の話とは関係ない勝手なHSP論とかは、正直無駄だとも思います。

人はそうそう変わらないですが、特に日本は取り上げられることで問題になり、それに対しての意見が出れば、途端に変わる人っていますから。

オタク文化もそんな感じでしたし。

世の中で多数派とか、主流が出来ると、ホント手のひら返しの様に変わる人って結構多いんですよ。

ならばこそ、生きづらさがあるなら、その原因、問題点を訴えて行くべきでしょう。

自分はHSPだからとか、ネットで自称してても、自己満足にしかならないですし、生きづらさを感じてるなら、それの改善にすらなりません。

うん。

今回は過去のイジメ事件から、違いという言葉に繋げてみましたが。

大なり小なり「違い」ってイジメや差別の原因なんですよね。

そういう問題をはらんでるのに、「皆違って皆良い」とか。なんか最近見聞きしなくなったようにも感じますが、喉元すぎればなんとやら。

数年経って忘れられてそう。こういう心理的な部分を突いてくるのも、割と毎度というやり方だったりします。

なのでこう、イジメにしろ、少年犯罪やその事件にしろ、根本にあるのは違いによる影響だったりします。

何がどう違って、何がどうある事で、どのような影響や作用が働いた結果、そういう事態になるのか?

「違い」という、たかが2文字で合っても真剣に向き合えば、今後をよく出来る、今からでも救えるかも知れない事もある。

そう考える必要があるんじゃないですかね。

まぁ「違う」というだけで、不利益被ったり、イジメられたりしてないと実感できないでしょうけど、実感がないからって無関心装ってると、何れ跳ね返るかもしれませんよーう?

ということで。

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