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生きづらいとは何ぞや?

まぁ、HSPという言葉について触れていると、ほぼ必ずと言って良い程目にするのが、

生きづらい、生きづらさを抱える人。

次いでHSPとしての生きやすさみたいな感じですかね。

いやー、その、流石に何度も言ってるのですが、これは酷い...という有様だと思います。

というのも、生きづらさとは言え誰しも感じる物ですし、簡単に言えばストレスなんかもそう言う部類でもあると思います。

感情が逆立ったりもしますしね。

ただ、敏感とか繊細というのも付いて回ってる割に、

自分以外が見えて無さ過ぎなのでは?

という程というか。自分自身の生きづらさや、自分が出来てる事、自分がやってる事、自分が何を感じたか?という様な話が多いわ、おおいわ。

そのせいか、個人としては生きづらさって結局何ぞや?ってどうしても自然と思案する事にもなります。

今回ははそんな感じで、生きづらさとは?という部分に触れていこうかな、と。


ブームを目にしだした背景(あくまで個人として

それ以前から言葉があり、少なからずYouTubeなんかでは動画として目にしてました。

まぁ、自分自身がただでさえ知ろう、調べようというのも、知った時に言葉の出所が自然と気になりましたし、なんかこう変に心地よく聞こえてしまう様な扱いという部分には違和感を覚えたので調べてみたんですよね。

そしたらまぁ、心理学としての言葉で、感覚処理感受性が高いというような表現がその頃からされてたわけですが。

ある時ふと舞い込んだものから、妙なブームを目にしてしまったんですよね。

そこから色々書きながら書いてみたのですが、実際問題として何でそんなに生きづらいだ、生きづらさだとして扱われてしまうのか?というのも考えてみたんですよ。

そうするとまぁ、嫌でも大きな流れとして「感染症」が立ちはだかってくるわけです。

また、それだけでなく、情報ではなくもう情報戦のプロパガンダでしょう?と言わんばかりに、感情に訴えようとするような情報だけでなく、SNSでの個人の物言いまでも変な流れを見せ始めてたんですよね。

とにかくヘイト。不満だったり、意にそぐわない相手に、兎に角噛みつく、悪態をつく。もう意見を述べるどころか、感情丸出しのものも相当に増えてると思います。

こんなんじゃ、ストレスが加速して、生きづらくなるのも当たり前。

そんな環境が仕上がってますし、こうなると正に環境感受性という言葉から、ネガティブな物を受けやすい環境が出来上がってるなぁ、という部分にすぐ気づいたわけなんですよね。

ただまぁ、私自身も個人としての経験の深い所に刺激やら何やらを受けすぎてしまったので、それに反応して感情が表に引きずり出されたという様な部分もあり、そこは前にも書きましたが、反省すべきだと思ってます。

人間だもの、感情が波立つのは仕方ない。

とはいえ、ね。感情が出すぎるのもそれはそれで良くないと思います。

何事も過ぎたるは猶及ばざるが如し。過剰になってしまえば、弊害もあるという事になるんですね。


逆転の発想

さて、そういう感じでストレスを受けやすい環境でもあるからこそ、というのは分かりはしたのですが、逆にこれが平時だった場合。

感染症が蔓延する前を思い出してみると...。

いやー、そんなにストレスを受けるって部分では大差ないような。あくまで個人的にですが、そういう側面が浮かび上がってきました。

で、感染症による影響でストレスを感じやすいというのは、どういう事なのか?を考えてみたんですよ。

平時か?有事か?という考え方をしてしまうと、確かに有事なので、そうあるのが当たり前とも言えなくもないです。

ですが、そもそも感染症って抑え込む事も可能で、過去には新型インフルエンザや、他にも色々と感染症の事例はあったし、多少の問題はあれどそこまで大きくならなかったんですよね。

ということは?

有事であっても、現状は特殊なケースという考え方も出来ようかな?と思います。

新型インフルに限らず、鳥だ豚だだったり、日本の外ではその他の感染症って事例はあるのですが、対岸の火事として傍観できるほどに広まってないんですよね。

そういう意味では、現状は「万が一」とか「想定外」というケースでもある、と言えると思います。

こうなるとほぼほぼ後手に回りがちになるのは必定とも言えます。

医療や感染症ではないですが、「想定外」を連呼してズルズルやってたのも嫌でも思い出されるし、医療崩壊の原因ってそこがやった事業仕分けも関係してると思いますよ。

民間では扱わない不採算とされる分野に携わってた、国立病院や労災病院にもメスいれましたしね。

そりゃ、今となっては病床確保できないのも当たり前とも言えなくないです。一旦削った予算って、何かが無ければ戻すには相当な説得力が必要なので難しくなりますしね。

と、話が逸れましたが。

なんだかんだで、人間社会の難しさ、悪く言ってしまえば今が良ければいい、自分が良ければいいみたいな無責任さも生きづらさの一端をになってるのではないかな?

と、個人的には思います。っていうか、見えてます、現実として。


そんな状況下でのHSP

うーん。もう、何度も言ってるのでなんですが、その生きづらさって自分だけの物なの?っていうね。

ストレス耐性というのもあるので、強い人、高い人は感じてはいても、前向きに、冷静に現実と向き合って生きていくという選択をして、敢えてネガティブな部分に目を向けず必死に生きてる人も居ようかな、と思います。

こういうタイプの人って、感じててもねじ伏せもしますし、口にすると自分が負けそうだからって鼓舞するような人も居るので、生きづらさは実際としては感じてる、とも言えなくないんですよ。

そういう意味では、現状なんて生きづらさを感じる事が当たり前、とも言えると思います。

寧ろHSPだったり、感受性が高いって人だと、一歩踏み込む形でその生きづらさの裏側にも目が行ったり、思考が行ったりもするので、感じてても言わない、自身が言う事で無駄に他者に悪影響を与えるからと避けるくらいの人も居ると思います。

個人としても、最近の色々はありますが、基本的には他者への影響を考えてなるべく自分のネガティブは出さないようにしますし、実際Twitterなんかでも敢えて言わずに黙って行動してたりします。

まぁ、カウンセリングでの指摘を使わせてもらうなら、自然レベルで出来てしまう、「他者の感情の取り込みと、それを自分の物として処理する」部分が悪さしたというのもありますけどね。

こういう部分って、相談に乗る時とかは良い方に働くんですけどね。

まぁ、飲まれて暴走もすれば、それに自分自身で気付いてもいるので、どこかでブレーキもかかる、という部分もあります。

そういう意味では、自分の匙加減で生きやすさに自然と転換も出来るので、他者由来の生きやすさや、生きづらさに乗る必要って皆無なんですよ。

なので、その手の本は読まないですし、裏側にある物を感じ取ってしまうので、自身が吐き出すヘイトの元になりかねないので、避けておくに越したことはない、そんな感じです。

厳しい言い方かもしれないですが、年齢一桁で親に頼らなければ苦しいってわけでも無いでしょうし、自分で自分を守るしかないと思いますよ。

概念って宗教じゃないんですから、そこに救いがあると思うのは、宗教にハマるより悪手だとも思います。

あとはまぁ、生きづらいって言ってる方が生きづらくなるし、無駄に他者に生きづらさを与える事に気付いてこそ、HSPだと思います。個人的に。

うん、厳しいなぁ(苦笑)


あとがき

流石に個人で観測可能な部分の話しでしかないので、それがどうなんだ?と問われると難しくもありますが。

他者との会話で、視線や目線の動き、仕草、表情、言葉や言動、声色から自然と気が付いたとかそういう物とは違って、生きづらさって原因有るからこそ感じるものなんですよね。

原因があって気づくではなく、その原因があるからこそ感じるみたいな。

気づくの場合はあくまで可能性とか、推測という部分が大きくなるので、必ず相手に確認したりして言及します。

まぁ、生きづらさを原因が無くとも感じるとか言われそうですが、それはストレス起因だろうし、ストレスがあるからには、そのストレスを感じる原因があるという感じで踏み込んで行くので、大方打ち返せるんですよね。

そしてこういうのが、深い処理ってね。表面とか、上辺ではなく、それは何故?という視点や思考から、掘って深い部分にある物を探るみたいな感じだと思いますよ。

あくまで、個人がそうあるだけですが。

そういう意味では自問自答って結構大事なんですよ。相手が言った事で自分が感じた事の理由を探し、そこから相手の様子を思い出しつつ相手も探る。

相手側の部分は可能性とか推測でしかないし、そこから相手に確認するにはストレートに聞けない部分もあるので、感じとりが出来る部分を磨く事にもなります。

あ!そう言えばあの時、こんな仕草の後に、こういう事を言って...

そう言うのを積み重ねて経験値にして、伸ばしていく事も可能なんですね。

なので、彼を知り己を知れば百戦して殆うからずに、自分が辿り着いて、なるほどと納得出来るようにもなる、と。

たどり着くには時間がかかりますし、パーソナルの影響の部分で難易度が違って、たどり着くまでの個人差はあろうかと思います。

何がどうあれ、結局自分を守り切れるのは自分が最後の砦だし、自分にとっての最後の希望って自分自身だったりします。

絶望に屈したところでいつかは立ち上がる事はできます。

ただ、無力感にさいなまれると、その立ち上がりが難しくなる。なので、絶望から挫折もするのですが、そこには無力感にさいなまれた自分自身が居るこそとも言えるんですね。

なのでまぁ、諦めたく無ければあがこうがもがこうが、自分で何とかするしかないんですよ。

言葉に縋って何とかしてもらおうなんて、ね。

そうは問屋が卸さない、という話にもなりますよ。

という感じで、今回はこれにて。

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