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更に多様性も踏まえて

先ほど性別違和について、自身の事情とかをアレコレ書いてみましたが。

実際としては、時代の流れや拡大解釈みたいなものも含まれて、性同一性障害だった頃より若干適応範囲は広くなってるとは思います。

Xジェンダーという、男女どちらでもないという男性か?女性か?という二元の枠にはまらない性別というのも含まれるようになってきています。

また、必ずしもホルモン投与による治療や性別移行手術(SRS手術)を望まない人、金銭的、医学的、制度的な理由などから選択できない場合もある事もいわれてたりします。

そういう意味では、多様性という言葉と共に時代の流れで性同一性障害と言われてた頃よりは間口は広い物になり、こうなければいけない、というのを用いてしまうと、悩んでる者同士で傷口に塩という結果にも。

そういうのは、避けておきたいですよね。

ということで、その辺も触れて行こうと思います。

性同一性障害の頃の名残なのか?

それとも、自分で言い聞かせて誤魔化してるのか?

MtFの人の中には、「女性らしく、女性らしさ」をやたらと口にする人も多いと思います。こういう言葉を使ってしまうと、望んだ体で生まれる事は出来ないとはいえ、「男らしく」しろというのも受け入れざるを得ないという、身も蓋もない事にならないでしょうか?

個人的には、こういう部分は懸念してたりします。

そもそも、個人的には上に挙げた記事にも書いたように「自分らしく居たら男らしくない」という事を周囲から指摘されてきてます。物心ついた頃から。自分で意識してるのではなく、自然体とか普通とかそんな状態で居ると、勝手に周囲が意識して干渉してくるという感じ。

また、そもそも性同一性が通常の人であっても、個人の個性は様々でそう言うのを好むのはおかしいのでは?という事を好んだりする人も居るのは普通。

嗜好と性同一性は違うとはいえ、男性らしさ、女性らしさを言ってしまうと、そういうのを超えた個人その物に対する物言いになってしまうと思うんですね。

結局何がどうあれ、個人がどのように自身を認識し、受け止め、向き合い生きていくか?というのが、そもそもの根本でそこでどうしても性同一性が一致しない事に苦痛を覚えるので、緩和する方へ踏み出すという選択をしてるにすぎないと思います。

そこをね。

自分が思うレベルに出来ないから、ということを「らしく、らしさ」という言葉で語って批難するのは、なんていうかな。

自認が揺らぎそうな自分に言い聞かせてるって側面が強いのでは?と感じたりします。上にも書いたけど。

個人的には性別違和に限らず、HSPというか感受性の高さゆえにどうしても周囲から不思議がられる=自分の普通だったりします。真面目過ぎとか、気を使い過ぎとか、頑張り過ぎとか。

いや、私自身そういう意識は皆無だから、そういわれても困るんだけど?

こう言う事が多いんですね。

学生の頃は、そんな私が居るから自分たちも同じレベルを求められて教師にしかられる、迷惑だとか言われた事もあります。

けどねー。

正直しらんがな?意識してない、普通レベルがそうなだけなのに。

って感じです。話がズレてしまったけど。

多様性って結局何だろうね?

なんかこう、この言葉も都合よく用いられてる面が強く、言葉の本質ついてないよねぇ?

そういう事も感じたりします。

自分を受け入れさせるためには多様性って使うけど、認めない相手には用いないって、それもう多様性じゃないじゃなーい、みたいなね。

性別違和という呼称に変わっただけでなく、今まではそういう事ではないと弾かれる事で苦痛を感じてた人も、解釈の拡大によって安心を得られるようになってきてる。

多様性という言葉と時代の流れとしては、そういう状態にあってもいいのではないかな?と思います。

そもそも、海外だとホルモン治療に留めてるFtMとMtFのカップルが、やはり子供は欲しいから、と一時投与を中止して元来の性別としての機能を取り戻し、子供を作るという流れもあったりします。

日本はまだ遅れているので、こういうのは聞かない、見かけないかもしれないですが、事の良し悪しは別にして当人たちがそう望んで行動したのであれば、それを受け入れて挙げれるような寛容さをもつ、というような事が多様性を問われる時代には必要になってくるんじゃないかな。

ちゃんと自分たちで悩んで、選んで行動する。

子供は確かに迷惑に思う可能性というのは拭えませんが、ちゃんと考えて行動出来る親の元で育てば、そういう事も受け入れられる子に育つ可能性の方が高いと、個人的には思います。

というか、当人たちの問題だし、周囲が良し悪しの基準持ち出して突く必要は、寧ろ皆無なんですよね。必要ないし、ナンセンスだと思います。

こういう部分も含めて

もう一度自分の話。

まぁ、性別違和にしろ感受性にしろ、どうしてもいわゆる世の中の一般的とか普通からは嫌でも外れる身。

良い方にも悪い方にも外れては、勝手に周囲が干渉してくるのはすっごく面倒です。

なので、当人が良ければいいんじゃない?とは思います。

ただ、性別移行手術(SRS手術)については、生殖機能を完全に取り除く事になるので、絶対的な不可逆が生じます。やってしまえば戻れません。

また、やったからとはいえ悩む事もあれば、命を絶つ選択をしてしまった人も居ます。

そのくらい覚悟が必要な選択なんですよ。

でね、覚悟を決めて臨んだであろうはずなのに、って結果になってる人も居るんです。そのくらい難しい事。

なので、この手術を究極の選択みたいに持ち上げるような流れは、個人的には断固拒否です。選択の幅を狭めるだけでしかないですし。

また、選民思想みたいなね。できないやつはダメっていう意識もうまれ、結果こういうのが差別になるんですよ。

ってか、自分がやりたくてやった事を、他人に強要するのはおかしな話。

なので、必要以上に移行先の性別の領域に踏み込まない様に留意したり、過剰に権利を求めたりとかも避けるべきかな、と。

そもそもね?手術しようが戸籍も変えようが、他人の事気にしてアレコレいう様では無意識に潜む男性らしさが露呈する可能性高くなりますし、女性からしたら何だか怖いってみられてしまいかねません。

なのでねー。

自分らしく生きてればいいよねって思ってます。

まとめ

何ていうかな、母だけでなく母方の叔母や従姉妹とはすごく馬が合うっていうか。違和感なく混ざって過ごせてたりします。

逆に、叔父や従兄に対しては弟と同じく、恐怖感のような物を覚えてたりします。

別件で精神科通院してますが、一時入院や検査入院みたいな話が出る症状も新たに指摘される機会も増えてます。で、一応性別違和の話はしてますし、主治医は専門医ではないですが、両親との関係性からどっちかって言うと中身は女性の方だよねって見てもらえてたりします。

で、一時的な入院と言う話になると、病室はどうするか?という話題が出てくるのですが、私自身まだ手術も出来てない、戸籍も変えてない、そんな私が女性の病室に入り込んだ場合、私が元来女性だったら嫌悪等感じるかもしれないので、男性の病室でも良いですよって話してます。

こう言うのって難しいんですよね。

何をどういっても付き合いの中で、その人を見ない限り分からない部分ってありますし。

ただでさえ、入院って状態なのでね。そこで相手に苦痛は与えるより、自分が我慢するのが妥当、こういう客観視みたいな見方もできたりしてます。

なんでもかんでも、受け入れてもらえなきゃダメ、ではないんですよね。

また、自分から沼にハマり込むにしても、あくまで自分はこうするってだけで、他人に要求したり、自分の外に正解を求めたりしなければ、それなりに悩みとか苦痛は和らぐと思いますよ。

ということで、第二段でしたー。

それでは。

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