見出し画像

たまには自分の事も

あーだこーだうるさいだけでもあれなので。

自己紹介を改めてってわけでもないですが、自身の現状について触れてみたいと思います。

さっくりざっくり。

精神疾患について

これについては、HSP云々とかとは、一応切り分けて認識、判断し扱ってます。疾患を勘違いしてるわけではない、って感じですかね。

とりあえずの診断は全般性不安障害。いわゆる不安による色々という診断になります。

ただ、少々問題があって。主治医が毎年のように変わって現在4人目。最初に診断を下してくれた主治医は色々話を聞いてくれて、私の幼少期からの感受性の高さや、性別についての訴えもうけとめてくれてたので、一応の診断はこうなりますけど、過去からの積み重ねでこうなってる可能性が高いので、性別違和の事も含め、とりあえずは前面にでてる不安を何とかしましょうと親身になってくれてたのですが。

以降の主治医はあまりこう、返答がないというか。

返答があっても「過去を切り捨てる事」とか、「何はどうあれ貴方は不安を感じてます」とか、全然話が伝わってねえええええ!!って感じてしまってて。しかも、現在では制限時間に言及されてしまった事が合わさり、伝えても伝わらないし、話をする意味がないと感じた事によって、言いたいことを言うに言えずという状況に。

個人視点では悪化してるという感じです。まぁ、主治医にも主治医の考えがあるのでしょうが、治療方針でとりあえず投薬を続けるとしか言ってくれないしで、何とも言えない、困惑するという状況になってます。

そのせいか、最近は診察終わって車に戻るとしばらくえずいてしまったり。

じゃぁ病院を変えれば?って話なんですが、

後出しは困るだろうと、性別違和(性同一性障害)の可能性も伝えると「うちでは診れません」っていうお断りをされてしまい。

たらい回しになった結果今の病院に行きついたという状況なので、他に行きようもなかったりします。

なので、他に病院をと考えると転居も一つの手になるとは思います。ですが、現状就労支援のB型ですし、収入面は家族の協力必須だし、色々難しい部分があったりします。

それ以上に、色々意識を上げて動こうにもそれが逆に体調の悪化につながるというか。一応訴えてはいるのですが、処方の変化も様子をみながらなので特に進まず、動きたくても体が言う事きかないって状態にまでなってます。

それでも、精神障害3級がやっとだし、障害年金も「該当する診断ではないから」と継続して支払ってても支給すらかなわず、動けないって状態ですね。

感受性の方は、実際の所どうなの?

幼少から変わらずだと思いますよ。寧ろ、色々知識や語彙力が付いた事で周囲には厄介だったり、更に扱いづらいだったりするかもしれません。

というのも、通院に際し主治医の方からも「言ってる事は分かるんだけど少し整理させてください...」みたいに、眉間に手を当てて考え込まれたりといのもよく目にする様になってます。

分かるけど、なんかこう色々追いつかない」とかも言われたりして。

あと、家族の方は相変わらずですね。

背後からの視線に気づく→なんで気づく!?→いつものことじゃん!とか。

なんでそんなに気遣う?なんでそんなに気にする?→だから毎回感じてるって言ってるじゃん!とか。

数年ぶりに会った友人に、色々隠してた性別違和の部分や、感受性の部分の話をしたら、驚かれました...(笑)

うそやん?本当に隠してたんか?気づかんかったわ...。

そりゃそうです。一番理解のあった母ですら気づけない、見抜けないだったんですから。その上で、そりゃ精神病むわ...とも、ね。

後はもう、現状色々感じますし、言うと問題というか、差別とか誹謗中傷とかにもなるので、普段から言及は避けてますが、ほぼ想定した可能性が実現していってるって感じで。

感じ取った通りになってるよねー。流石に数十年経験すると、なんていうか。少し自分で自分が怖くもなるよねって。

そんな感じになってますね。

ほんとこう、許されるなら意識を常に閉じさせてください、感じさせないでくださいっていう状態&状況です。

本音を言えばもう、何も感じたくなーい!!

だってもう、幼少期から何にも変わんないですもん。時代は変わっても人間が変わっとらんのじゃー!みたいな。

うぇー。

母とのアレコレ

数年前に癌で亡くなった母。

その際、私の感受性の部分での後悔と謝罪とかもしましたって話したりもしてます。

ただこういうのって、身近な理解者の死、という受け取り方によってはお涙頂戴になるという部分から、敢えて避けてた部分を少しさらけ出そうと思います。

まず、なぜ後悔と謝罪をしたかっていうと、恐らく闘病中に何か感じたんだと思います。それが子供の頃から全然変わらずって感じで、看病をするというより母からすれば、護りに来てるみたいに受け取られてたかもしれません。

なんで、そんなね。理解してるとはいえ、亡くなった、しかも親とは言え他人の思考を想像できるのか?という所なのですが。

そもそも、母が癌だとしった瞬間に私の頭の中には「あ、お別れの時がきたんだな」と浮かんで来て。そして、それについて私自身悲しむわけでもなく、後悔するわけでもなく、「いつ終わるか分からないし、家族が傍にいても病院という異空間だし、少なからずでも良いから日常を感じ取ってもらえるように動こう」ってなりまして。

厨二っぽいっていうか「どうせ、みんな悲しむし、悲しむ人が増えればその悲しみが実現するし、私だけでもとことん抗ってみせてやんよ」っていうかんじでね。

この時の私の方は、実は初期の頃は通院してたのですが病院不信から通院をやめただけでなく、社会復帰しては悪化して逆戻りが続いたので、引きこもってた頃です。

それがまぁ、毎日のように看病を名目に病院にいくわけで。

そんな私を知ってるせいか、一応なのか母からは帰って休むようにと余裕のあるうちは常にいわれてましたが、これまたバレないようにっていうか私の方もうまく合わせて嘘をついては病院に可能な限り滞在してました。

それからしばらくして、母の病状は次第に悪化して個室に移る事に。

そんな状態なのに心配してるという名目上自分の気持ちを優先して母に言い聞かせようとする周囲にはこの時ばかりは流石にうんざりしかけました。

周囲に対しては私が代弁するっていうか、気持ちは分かるけど一番つらいのは母なので、もう少し配慮してくださいってのを周囲に口うるさく言ってたんですね。母の前でも。

また、父も同じで看病の仕方が分からないとか言ってたので教えたにもかかわらず、やっぱり心配してるという部分から自分の考える看病をやってしまい、悪化する母からは敬遠されるような状態にまでなりました。

そんな感じでね、母からすればやっぱり浮いて見えたっていうか、私だけが良く分かってて周囲に注意してる風に見えたんだと思います。

そして、弟を妊娠した時に始まった私の行動が変わってないんだなぁと、感じていきついた結論が「親として守ってたつもりが、あの頃からこの子(私)に守られてたんだな」って感じたのかもしれません。

なので、後悔と謝罪を最期に残しのかもしれません。まぁそれだけでなく、私自身の幸せをちゃんと考えるように念押しされましたし、これからは自分の為に、自分の好きに生きてね、と心配もされました。

こんな感じだったので、終わりを感じたであろう頃の母は、亡くなってからについてのお願いのメモなんかも、父ではなく私の方に預けたりもありました。何がどうあれ連れ添った夫婦なんですけどね。子供としてはちょっと悲しくもあり、ため息もでたりで複雑でした。

って、書くほどお涙頂戴って感じが増してそうですが...。

そんな状況でも、持ち合わせた感受性の違いで行動だったり、心持だったりが全然違ってしまい。

亡くなってからも、悲しさより自分の無力さを痛感して、自分をすごく恨んでましたしね。

というのも。

中学の頃から、こういう事態になるってのを何でか想像してたんですよ。そういう何かを感じてからは時折。

ただ、常に抱えられてる物では無かったせいか、行動や思考、感情に影響しなかったんですよね。

でも、やっぱり人間って無力すぎるなぁ、私のクソッタレ!!

みたいなのがしばらく続きました。まぁ、乗り越えたんだけどねー。

まとめ

長くなりましたが、如何せん経験があるだけでなくしっかり記憶が残ってたりもします。

なので、書いてみてはいるのですが、伝わりにくそう。

まぁでも、その伝わりにくさが狙いだったりもします。

めったに出さないという部分でも、一切話さなかったわけでもなく。この人なら大丈夫かな?っていうのがあるので、話してみると案の定というのかな。

驚かれるし、不思議がられるし、あとは理解が追いつかないとか、理解しにくいという感じにもなる様です。

それでも、経験として話してるから、そういう事あったんだねって反応はしてくれて。こう言うのがあると、少なからず伝わってるのも感じ取れます。

逆に、自分の尺度を基にそんな事はありえないって人も居て、こちらの方が多いのが実情だったりします。この場合、自分は経験したことがないとか、今までそんな人に会った事がないとか、普通とか一般的にとか科学的にあり得ないとか、そういう感じでね。

そんなの歴史を見ればわかるでしょ?っても、歴史的にはあり得る、でも自分の周りでそんな人が~って、矛盾起こすんですよ。あっちは良いけど、お前はおかしいみたいに。

まぁ、これ以上は記事を変えてかかないと、長くなりすぎるかな...。

という事で、一旦切り上げます。

それでは~。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?