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正直な話よくわかんないんですよ

もう、こっちに来た方がいいんじゃねぇか? byコアラ

いやあの、私はユーカリは食事になりませんからね?コアラさん。

さて。

別に心理学を学んだわけでは無いので、あくまで個人の見方とか経験からのお話が過分に盛り込まれます。

なので、これが正しい間違いという話でもなく。

それぞれ見て、感じて、考えて、その他色々してもらえたらなぁ、そんな感じです。


正直な話

人間ってよくわからないんですよ、幼少の頃から。

それは何故なのか?という話も少なからずしてますが、どうにもこうにも考え方や捉え方、その元になる視点が違い過ぎる。

それどころか、完璧じゃ無いとは言え、感情もそれなりにコントロールしようとも意識してるので、時折なんでそんなにいい人で居られるの?とか言われもしますが......

正直、わかりません。

一応説明できたり、自分の事なので言及出来なくも無いのでしてるだけというか。

過去には「さぁ?なんでだろうね?」ってはぐらかしてた時期もありましたが、そうすると食い下がられる機会も増えたので、聞かれれば明かすくらいになったというだけでもあります。

ただね?

言葉とか、その意味や概念ってあるじゃないですか。それに対して掘り下げるって言うんですかね。

正誤善悪に拘らないって言っても、結局はそういう部分が出てしまうので、払拭しようと考え込んでしまう。個人としてはそんな感じだったりします。

うん。

まぁ、幼少の頃から言いも悪いもなんかこう周囲から色々言われてしまう。でも学生時代も社会人になってからも、勉強、仕事としてやる必要が有ると感じてやってただけですし、仕事なんて誰かがやる必要があるんですよね。

それが、良い悪い、無駄とか関係なく。

やることが会社や企業としての集団の利益というだけでなく、その中での人間関係やコミュニケーションを取るために必要な事、個人的にはそう解釈してます。

そもそも、どうあがいても取りやめる事が出来ない事って、必ず誰かがやる必要があるんですよ。それを、周囲は何かと理由をこじつけてやろうとしないし、それだけでなく感情出して環境に変化を加えてくる。

それが、ただでさえストレスの多い自身としては余計な負荷なので、それを取り除くために面倒でも引き受けてただけ。

こういう話もよく記事に書いてますが、本当にそういう部分からの動きであって、それでも感情は揺れるので不満はなくもないわけで。

それを良い人、気遣いや配慮が出来る人、真面目な人って言われても、私としては自分と違う他者が、協力や分担は知ってながらもしてくれないからやってるだけ。

下手すると、引き受けた私の基に来て、無駄な事を引き受けたりやらせるのって最悪だよね、とか言うわけですが、そんなのあなたの考え方だし、私には知らんがなでしかないんですよ。

時折、不満やイライラから、「そうやって文句言うのは嫌でも引き受けてる、そういう自分がまず在るのが先じゃないですか?」とグサっとさして黙らせたりした事も多々あります。

こういうのって、頼む側にも苦労やストレスってあるんですよ。こういう部分にも気づけてないのか、配慮が出来ないだけなのか、自分たちが楽に過ごせるようにするのがその立場の人とか言い出すしで、本当にわかりません。

いや、分かってるけど「否定してるばかり」では何も解決しないので、否定したくてもしないだけ、です。

うん。

まじわからない。


正しい間違いとか善悪の話

こういうのもよく分かりません。

分からないと言うか、分からなくはないけど、自分の正しさだったり自己肯定をしたがったりで、何がどうあってどういう状況になってるの?が......と掘り下げて考えないのが、私としては理解できないって感じで。

上辺だけ見てるとかいうと、何様な感じもありますが。

実際問題として現実として目に映ってるのは、その事象の良し悪しだけでなく、それを受けての人の反応や心理を感じ取ったり、嫌でも見せつけられたりするので、そういう部分も自然とみてしまってて。

なので、上辺みたいに言ってしまうんですね。そういう感情とか思考とか、心理みたいなのが働いてる様を、空気や雰囲気、言動や仕草、声のトーンなんかで感じさせてくれるので

人間心理として、善悪や正誤を考えてしまうのは仕方ないと思います。私自身もそうありますし。あくまで、傾かない様に”それはどうなんだろう?”って考えるようにしてるし、最近はそういう部分から問いかけてると言う方が強かったりします

日本には、四字熟語や故事成語、諺なんかもあって、色んな言い回しがありますが、それについても実際問題として、どういうことなのか?を割と考えてしまう方で。

1を言えばそれ以上を理解する、伝える事が出来てるとかを、知能検査やカウンセリングを通して臨床心理士の先生から言われましたが、こういう部分は言葉に対しての感じ取りが、良くも悪くもズレてる人というだけなんですよね、私としては。

実感もないし、何でそう言われたのかな?って考えましたし。

と、こんな感じで言葉に対しては幼少から結構敏感というだけでなく、小学校上がる頃には親が持ってる文庫本=小説とかにも手を出すようになってました。

そこに知りたい物がある、知れる物がある、そんな感じで。

と、少し離れましたが。

紛争や戦争、小さいレベルでも喧嘩とか、最近だとネット上での誹謗中傷や正義を掲げた他者否定なんかも、正直わからないんですよね。

良い悪い言ってどうするの?って感じで。

それで世の中動いたとしても、あくまで多数派が動くだけで、少数派や考え方がどうしても違う人は必ず残ります。

それが現実なんですよね。

っていうか、多様性も権利も差別も、過剰に片方を悪と言ったり、自分の言い分だけを通そうとすると、周囲が見えてない、自分に固執してしまってるだけ、そういう状態になってしまい、外野というか輪に入ってこない、避けてる考え方が違う人からすれば、どっちもどっちでしかない、そうなってしまうと思います。

そういうのって、学校で習うレベルの歴史でも嫌って程見聞きするとも思うんですよね。個人的に。

なので、誰かの言い分というだけでなく、そうやって自分で身て聞いて、感じて考えた上で、自分の言葉として、

善悪や正義に固執したって、歴史を繰り返してるだけで、血が流れなければ良い、それで解決......にはなってないじゃないか。

なのに何故、正義や正しさに固執するのか?

という風に感じて考えてしまう。

以前、「うっせぇわ」という曲の冒頭の解釈で、

正しさとは 愚かさとは それが何か見せつけてやる

という部分は、正しさに固執してしまい醜態を晒すという愚かさとはどんなものか?それを見せつけてやるって言いたいのでは?と個人の解釈を述べたりしたんですね。


少なからず触れてみて

良くも悪くも色々感じ取れるだけでなく、そこを追求しようとするため、どうしても自分や他者の心理みたいな部分に触れてしまう。

そういう事も多いのですが、サラッとでも心理学に触れてみると、わからないどころか納得だらけだったり、そもそもやってることじゃん、みたいな部分も多いです。

生まれた時代だけでなく、環境として否定されるばかりだったからなのか、心理学とか精神医学に触れる事が出来ず、40年過ごしましたが、正直物凄く面白いんですよ。

そして、過去に興味を持って本を読んだりしただけでなく、民間レベルのカウンセラーの資格を取得しようとして勉強しましたが、

これ普通に相談に乗る時にやってる事なんだけど?はて?

と、考えたりもしました。なんかこう難しくした言葉や概念も出てきましたが、自然とやってたのもあって、このくらい出来るんじゃない?とか、カウンセリングと言わずとも相談ってこういう事なのでは?とか、結構アレコレ考えたりもしました。

だから、自分がどうという話ではなく、あくまで実際に考えた事、気付いた事、感じた事という部分の話しだけです。

って言っても、何様感でてそうですが、それはそれ。結局受け手次第って話なんですね。こういうのも、性格とかそういう部分だけでなく、人間としての心理が働いてると思います。

まぁ、相談上手とか聞き上手とか言われるだけでなく、相談したいことがあるならコイツにしてみて?みたいに、友人の友人とかに勧められたりするというのも経験してます。

相談の中では、即座に事態を解決できる物ってそうそうないんですよ。どうしても、他者が絡んだ上での相談が殆どです。上手くいかない、失敗が多いという相談も、その人自身の感じ方が問題で相談に乗ったからって解決はできないんですね。

ただ、話を聞くだけでなく、色々思う所を話しつつ問いかけたりしてみると気が付けば、安心できたとか、もう少し頑張ってみようと思うとか、そんな感じでの相談としての終了を相手から宣言される、そして終わるという事ばかりでした。

うん。

別段こう、特別何かをしたわけでもなく。学んで実践したわけでもないです。

ただ、「話を聞く」という事に対しては、言葉を耳にいれるだけでなく、何故?を自然と考えたり、頭にイメージが勝手に湧いて実際の状況の再現無理でも大方色々つかめてるという状態になる感じなので、聞くというより聴くに自然となってたって言うんですかね。

聞くの場合、大して自分の中に入って来なくても、音は聞こえてるというレベルの物。

聴くの場合、意識無意識問わず、深く受け入れようとして耳に入れる。

こういう差があるっていうか、個人として言葉の使い分け、切り分けもしえったりします。

と、実際経験として自分なりにやってた事が見つかるという分野も心理学だったりもするので、そういう部分でも楽しめたりするんですね。

そしてそこから、言葉に対しての感じ取りが発生して、深くしっかりは無理でも、これはどうなの?これってどういう事?もっと知りたいなぁって出来る範囲で自然と触れに行くんですよね。


HSPという概念について

そうやって触れていくので、個人としては感覚処理感受性とか、環境感受性とか、知ることが出来た物は吸収するようにしてます

個人としては、最近は辛辣というか、厳しめな事をかいてますが、実際の所は、それってどうなのよ?という思いが出発点だったりします。

なので、わからなくもない、そういう風に言うんですね。

とはいえ。

掘り下げるとか、追及するとかが全然出来てないのも見て取れます。感じ取るではなく、もう目に見えて出してしまってる=頭隠して尻隠さずになってしまってるんですよ。

で、そこには自分に対する甘さと、周囲や環境、時代に対する不満というのも多いんですね。

こういう部分の根底にあるのは、不安だと思います。

そしてその不安の解消=自分が楽になりたい、最悪自分が楽になれば良い、そういうのも見え隠れしちゃってます。

HSPという同じ人に対して、という割に、感受性は誰でも持ってる物でそういう部分の話しとして捉えようとしてない、そして、それが高い人という話なのに、色んな個人差の高い低い、良い悪いの話を参考に、そうやすやすと自分が頂点に立てるものでも無い、という現実を見る事が出来てないそういう様を露呈させるのは、本当に人を助けようとする人の姿勢ですか?そういう姿勢で人が救えると思ってるのですか?

そういう問いをしてるような感じでもあります。言い方厳しいけど。

というか、人を救うのって相手も救うだけでなく、自分も潰れない様にしなきゃいけないもので、これが人命救助とかになると相当に訓練して、体も作り上げて備えてるのが現実なんですね。

ホントこう、やってる事が矛盾してしまってるんですよ。

そして、その背景には人を救うよりも、自分がそういう人だという事にしておきたいと言う様な、弱さ、いい加減さ、そういう物が根底にないですか?

という話になります。

自分は分かってもらえないから、分かってあげられる人、みたいなね。

生きづらいなんてのは、HSPという話だけでなく、障がい者だったり、何かしらの都合で立場が狭かったり、色んな生きづらさがあるのが世の中だし、現実なんですよ。

そこで、自分の生きづらさにしか目が行かない様、こういうのを表に出してしまうのは、自分が分かってもらえない辛さを抱えると同時に、その割に周囲の生きづらさには全然目が行ってない、感じとれてない、気付けてない、配慮も出来てない、そういう話でもありますよ。

これが良い悪いという話ではなく、そんなやり方してたらしっぺ返しってあるんです。因果応報という感じでね。

そうなったら、更に辛くなり苦しくなるだけなんですよ。

今が良ければそれでいいではなく、この先も続く人生を送るのに、本当にそんな状態で大丈夫と思いますか?

そうあるなら、そもそも現時点で生きづらさって抱えてないとも思いますよ。

自分に対しての甘さで切り抜けられるくらいですから。

うん。

色々嫌な物を見るような話かもしれませんが。


人間って本当に不思議

不思議です、本当に。

とはいえ、それはまた逆も然りという話でも合って。

あくまで、出会った、触れ合った、会話しただけでなく、見聞きしたというだけでも色んな人に遭遇してきましたが、もし腹を割って話す機会があれば、相手もまた私が不思議な人と映る可能性もあります

それが当たり前というか、現実というか。

HSPの話をしましたが、生きづらい自分が居るからこそ、生きづらい他者がいるのも当然という話なんですよね。

なので、違う部分はあれど、逆に両天秤で釣り合うと言う様な同じ部分もあるんです。

それでもまぁ、どうしても不思議っていうか、眩暈とかした時やふとした瞬間に、フラッシュバックのような感じで、自分が物凄く遠くにいるような錯覚みたいなのも感じるんですよね。これも子供の頃から。

個人的に、清濁併せ呑むとかいう事もありますが、結局それは周囲が良い悪い、善悪、正誤という二元で切り分けようとするだけでなく、それを持って私はネガティブな方だと言われ続けて来たので、そういう切り分けをしないようにもなったのだとも思います。

自分含めて、人間って本当に不思議ですよ

光と闇、生と死、静と動、善と悪、こういう概念と同じ様に、周囲がそうあるから反対側として私がいる、そんな感じも覚えます。

おかしな話ですよ。

とはいえ、そういう言葉もどちらか一方だけで存在は出来ず、両方あってこそなんですよね。

って、思考があらぬ方向に向かい出したせいで、何を言ってるのか自分でも混乱し始める有様だったりもします。

うーん、不思議ですねぇ。


まとめ&後記

なんかこう、勢いづいたというか、もう1記事書こうかな?って感じで手が動いてしまいました。

まぁ、その、ね。

ホントにこう、色々感じ取れるんですよ。

それだけでなく、環境の変化でも些細レベルで体が反応したり、身構えたりもします。

マイカーで移動が当たり前の地域ですが、自分の部屋、部屋から出た屋内、車の中、外、建物と、環境が変わる毎に感じ取るものが変わってしまい、若干の調整のラグなんかもあったりします。

学校通ってた頃もそんな感じでした。

校門、昇降口、廊下、自身の所属する教室、色々変化を感じてましたし、自分は普通じゃないから周囲に合わせないといけないという、幼少からの自己暗示が効いてたので、変化に対しても耐えて黙って調整して、という感じでしたね。

まじで、面倒くさいだけでなく、自分でも把握できない疲れやストレスも感じてたようにあります。

教室なんかでも、その日その日で毎日違う様な物で。

何でそう感じるのかわからなかったですが、生きるのに必死だったのでね。そこに辛さを感じる暇が無かったというのも実情です。

良くも悪くも、幼少期に自分と周囲どころか、一番近しいと思ってた母ですら「あんたは変わってるから」というレベルだったので、そこから発生するおかしさを抑え込むようになってたんですよ。

そりゃ辛い事も多々ありましたよ。イジメもうけるだけでなく、イジメられる貴方が悪いとしか言われない、親ですらそれで相談相手なんて居なかったですし。

保険の先生とかに相談したとしても、「あ、これは無理だな、他の大人と変わんないな」って感じでした。実際、痛覚も敏感すぎて困るくらいだったのですが、そういう話をしてもおかしいとしか言われなかったですし。

言葉にして伝えてるのに、なんで伝わらないねん!っていうね。

その割に意識してないのに、聞き分けがいいだ、一つ言えばそれ以上わかってるだ言われ続けて、何がなんだかわからねえええええ!!がずっと続いてたりします。

なので、人間って不思議。

言葉やその意味、概念を用いてるのにね。

メンタル崩してしまっただけでなく、今までの自己暗示とか、受け止めてきたキャパが自分の中でも壊れてしまってて、これはよろしくないという感じ取りを、自分の内側から受けてますが。

流石にとりもどせないわ、マジどうしよう(笑)

そんな状態なんですよ。

40超えて、4歳5歳の頃からやってた自己形成を再度やんの?マジなにこれ?って感じだったりもします。

と、個人の話が過ぎてもね。

良い部分もあれば、悪い部分もあります。

なので、程ほどにしておきましょう。

それではね。

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