午後三時半

 休憩の時間である。
 私は階段で休憩所へゆこうとしていた。

「生ハムちゃん!階段なんて暑いでしょ。乗っていきなさいよ」
 ひとりのお姉さまがそう誘う。私は断る理由もないし、「ほんじゃお邪魔しま~す」と乗り込んだ。

「そうねぇ、あそこに比べれば私たちって幸せよね」
「そう思わなくちゃいけないわ」
 お姉さま二人はなにか深い会話をしていた。私は話がわからないので、のんびりと古いエレベーターに凭れて脳内で歌舞伎町の女王を流していた。

「あ、お疲れ様です」
 エレベーターが開くと、早引けのお姉さんとちょうど行きあった。
 私は彼女を知らなかった。課が違うからだ。
 お姉さまたちは甲高く私の後ろから声を投げた。
「あら~Sさんお疲れ様です」
「はやいのねぇお疲れ様」
「お疲れ様で~す」
 私は軽く手を振った。媚を売っとこうとか、知り合いになりたいとか、深い意味は特になかった。振り返してくれたらうれしいな~、くらいの気持ちで腰の位置で手を振った。
 振り返してはくれなかった。かなしい。

 そこから数歩歩いたところで、お姉さまの一人が尋ねた。
「生ハムちゃん、Sさんと知り合い?」
 私は首を振った。
「いや、全然知らないです。Sさんと仰有るんですか?」
「えええっ!???」
「全然知らないの!?」
「全然知らないです」
「なんで手を振ったの!?」

 いや、私にもわからん。数秒前の私に問い質したい。見知らぬひとになんで手を振ったの?
 でもこのわからないという回答は確実に許されないな。私は確信した。

「あー……ほら、あの。あの時手を振ってた人だなーって覚えてもらったら嬉しいじゃないですか?」
「んま~~っ!!!」
「あら~~~~!!!」
 私は恐々回答した。お姉さまたちは「カワイイ」という言葉と「若い」という言葉を連射した。私は蜂の巣になった。基準が謎だった。

 いや特に理由はないんですよ。振り返してもらったらうれしいな~って……ね?

 思えば私は結構手を振ることがある。
 お姉さまとふいに目がバッチリ合ったとき、高く手をあげてぶんぶん振って見せたりする。そうすると、失笑であれ微笑であれ笑ってくれる。たまに、手を振り返してくれる。それがうれしい。

 そして、それについてぼんやり考えていたのだが、『覚えてもらったら嬉しい』というの、なんかチャラくね?という結論に至った。

 ORANGE RANGEの「上海ハニー」という曲に出てくる「僕、君のことよく知らないけれど、なんかトキめいてます」という歌詞そのものではないか。

 私はチャラい生ハムだったのだろうか。
 人をたらし込むのは割りと好きだが、それは「人をたらし込む過程と、自分をとくに可愛がってくれるのが嬉しいから」好きなのであって「一人でアソぶのは今夜で終わり」にしたいわけではないのである。下心もモラルもない。

 だれか私にモラルを教えてください。