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続・古典は本当に必要なのか

「古典は本当に必要なのか」というテーマ、当該のシンポジウムの枠を越えて、ネット上(主にTwitter上)で議論を呼んでいます。シンポ当日、実況が盛んに行われた結果、ハッシュタグ「#古典は本当に必要なのか」がトレンド入りしたことが大きかったかと。
※シンポジウムの動画視聴メモはこちら

で、三省堂の辞典編集者・飯間浩明さんもTwitterで本件に言及されており、大変興味深かったので転載させていただきます。

学校の国語で「古典は本当に必要なのか」という議論がネット上にあることを知りました。大学受験で古典が最も貴重な得点源だった高校生の私にとっては、かりに古典の配点が減らされるようなことがあれば、悪夢でしょう。志望校に通らなかったかもしれない。そうなると非常に困るのは事実です。(飯間さんTwitterより)

これを皮切りにした連続ツイートが興味深いので是非上記リンクから読んでいただきたいです。

「国語の古典は本当に必要なのか」という議論では、文語文=古典文学と考えると、話が混沌とします。文語文の中には、文学も論説も公文書もあります。現代のわれわれに必要なのは、「源氏物語」を読み解く能力ばかりでなく、広く過去の文献を読み解く能力です。文学と文学以外を分けて考えるべきです。(飯間さんTwitterより)

古典文学には魅力があり教養として学ぶ意義はあるとしつつ、「必要なのか」という観点では特に文語文の重要性を強調されています。

戦前までの文章は文語文で書かれたものが多く、ちょっと古いことを調べようとすると、すぐに文語文の知識が必要になります。自然科学でも社会科学でも、昔の日本はどうだったかを調べる機会は多いはずです。そのための基礎知識を形成するには、文語文の授業は選択ではなく必須とするのが妥当です。(飯間さんTwitterより)

ということで、「古典文学は選択も可、ただし文語文は必修に」というご意見。たしかに、古典で取り扱う文章に評論や公文書がもっと増えると見え方が変わってくる気がします。

ただ、自然科学領域で文語文に向き合う機会がどの程度あるのかはよくわかりません。シンポジウムでも出ましたが「現代語訳を読めば事足りる」という考え方もありますし、古典が実学寄りに組み変わったとしても「古典に割かれる時間を理系教育or実社会に根差した言語教育に充てるべし」という主張はなかなか強力だなぁと…。今後もこの議論には注目していきたいと思います。

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