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哲学的ゾンビ

こんばんは。なゅたむです。
私事ですが、先週咳と頭痛がある中で、無理やり学生インターンのチューター対応のために出社していたら普通に悪化しました。無事社会の歯車としての自覚が芽生えてきたかなと思います。ちなみにインターン生はとても良い子だったので、「来るとしてもうちの部署以外が良いよ」とだけ伝えておきました。

感染症繋がりという訳ではないですが、今回はゾンビのお話です。サムネはいらすとやにあったインプレゾンビです。
めちゃくちゃ自分語りの内容になってしまったので苦手な方はブラウザバックでお願いします。。

みなさんは「哲学的ゾンビ」という言葉を知っていますか?私は今から10年ほど前、大体16歳の頃にこの言葉に出会ったと記憶しています。

てつがくてき‐ゾンビ【哲学的ゾンビ】

言動や社会性の面でも、生理学・解剖学的にも普通の人間そのものだが、内面的な意識を持たないという、思考実験上の存在。
[補説] オーストラリアの哲学者D=チャーマーズが提唱。哲学的ゾンビが、喜怒哀楽などさまざまな感情を表出したとしても、それは内的な情動の発露でなく、機械的な反応・演算の結果として出力しているに過ぎないが、現実の人間がそのような存在でないと証明することはできない。

コトバンク

もしズレていたら申し訳ないですが、自分としては、
「自分は感情や理性を持って行動しているが、周りの人がそうとは限らない。自分以外はプログラム上で機械的に決まった行動しか取っていないのではないか。」
といった解釈でした。
というのも、この言葉に出会うまで、まったく同じことを度々考えることがありました。

中学生までの自分は勉強や運動、その他諸々が大抵上手くいっていました。あまりにもクソガキでしたが(今もですが)、傍から見れば優等生だったと自負しています(今は違いますが)。そんなクソガキながらに思ったのが、
「個人の総合ステータスはきっと平等に作られているだろうから、自分だけがこんなに上手くいっているのはおかしい。」
ということです。細かくは覚えていないですが、初めてこう考えたのは小学生の頃だったと思います。
今思い返せばこれ以上ないほどの傲慢さですが、この考えがいつしか発展して、
「自分以外は決められた行動しか取らないようにできているのではないか。」
と考えるようになりました。正に「哲学的ゾンビ」な思考です。

こういった背景もあり、この言葉に出会ったときはとてつもない衝撃を受けました。高校、大学と年齢を重ねるにつれて自分の平凡さを理解して、この考えは次第に消えていきました。今では寧ろ、自分の人生に対して当事者意識が足りていないと感じるくらい、適当に生きてしまっています。

このような立場になって思うのが、「弱い立場から考える哲学的ゾンビ」というものありそうだな、ということです。
世界的に素晴らしい発明をする人や、そこまでの規模でなくとも、社内でめちゃくちゃ働いて成果を出している人に対して、
「きっと辛いはずなのにここまで精力的に取り組むのは自分には無理だな。もしかして辛いという感情が無いのではないか。」
と考えてしまうこともあるかな~といった感じです。
今の自分がそんな人たちを見たら「仕事が趣味なんだろうな~すげえな。」と考えると思います。

話の落としどころが見えなくなってしまったので終わります。若かりしクソガキの私が気づかぬうちに誰かを傷つけてしまっていないことを願います。

オチが無かったので代わりにスベってもらいました。ありがとうChatGPT!

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