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杳として知れず ⑮ 夢は閉じて

 さっきからこの青年の話しぶりは、彼女より元担当医の肩を持っているように思えた。同じ時期に同じ学部だったことからも、かなり近い位置にいたようだが、むしろ彼女とはある程度の年齢になってからの付き合いで、元担当医よりも一線を引く素っ気なさを感じる。それには彼女の母親による不倫の逢引のために、娘を押し付けられた腹いせもあるのか、もしくは彼女から何か痛い目に遭わされたのだろう。

 それは自分で思うより表情に出ていたのか、僕の浅はかな思考をいとも簡単に読み取ったように、青年は透明度の高い薄氷を想起させる微笑を漏らす。

「君が今、予想していることは、あながち間違ってない。そう、私も彼女に"してやられた"一人ですよ。君のよく知る共通の知人を使ってね」

 そうだ、青年は元担当医を『身代わり』と言っていた。つまり当初は、この青年に彼女は協力を求めていたのだ、おそらく元担当医のように。しかし青年は断り、代わりで元担当医を引き入れ、それを青年へ当てつけに、見せつけたのかもしれない。やはり彼女はどんな手を使ってでも、相手より常に上の立場に立とうとするらしい。

「あなたにとって彼は、そうとう大事なようですね?彼女とは随分、情のかけ方に違いがある気がします」

 青年は気づいていないのか、元担当医の話をする時と彼女の話とでは、表情に違いが見受けられた。元担当医の話には懐古が、逆に彼女へは嫌悪感が、上品に抑制した口調や表情の細部に滲み出ている。

「彼とは兄弟みたいに育ちましたから、ある時まではね。そのうち私と比較され、家族ばかりか親族からも無下に扱われた。次第に僕らの間に溝が深まったのを利用した彼女により、彼が堕ちていくのを傍目から見守るしかなかった。彼にとって彼女は愛しい理解者で、私は憎きライバルと思わされていたんです、ある年の多忙な時期に、彼から深刻な相談があると呼び出されてね」

 感情を殺したように語る青年の話では、ちょうど青年は今後を左右する大事な時期で、合間を縫って呼び出された場所へ向かうと、そこには追い込まれた顔つきの元担当医と、不機嫌そうな彼女が向かい合わせに座った男といた。揃いのメンツに一抹の不安を抱いたまま青年は席へ向かうと元担当医の表情は一変、大喜びし、一方で同席した男は、ひどく悔しがり悪態をついた。彼らは青年を騙して呼び、来るかを賭けていた。

『そうだ、これから息抜きついでにダブルデートしないか。費用は全部、こいつ持ちだから』

 有頂天になった元担当医は、青年の状況などお構いなしにピントのズレた提案をし、相手の男は憤りを露わに立ち上がると、こう言い放った。"は?なんで俺が男とデートすんの?…罰ゲーでもお断りだわ"、そのまま怒りまかせに鈍い音を鳴らしながら、厚めの封筒をテーブルに叩きつけ、去って行った。同席していた男は医学部で顔は広いが口が軽く、無類の女好きで金にルーズなことで有名で、同性愛を嫌悪していた。彼女らによる、この男に対して行ったイカサマに近い金の回収は、その男が腹いせに、これからどう動くかを暗に示すものでもあった。

『・・・で、相談は?あいつの金の返済に利用したのか、誤解を招くことまでして』

 そんな厄介な男が去り、事の全容をいち早く察した青年の一言で、一気に気まずくなった空気を、元担当医の子供じみた嘘の言い訳が空回る。

『いや、実直で堅物な従兄弟と愛おしい彼女を同時にビックリさせたくてさ。ちょっとしたサプラ~イズ!って奴だよ。こういう遊び、"彼女"が喜ぶんだ』

 焦って取り繕う笑顔での無自覚な釈明は、罪悪感から滴る汗が光って白昼の日差しに煌めいていた。無意識に一瞬だけ見遣った彼の視線の先に、本当の首謀者を表している。隣の狡猾な遠隔操作に気づけない彼に青年は失望より、ひどく物悲しい気分で無言のまま佇む。その一連の様子を、ずっと他人事のように眺めた彼女は青年へ近づき、耳元で突き刺す一言を発した。

『ごめんなさい私、知らなくて。でも"彼のためなら、あなたは絶対来る"ものね。・・・それにこの人、こうでもしないと"使えない"の』

 彼女は始めから勝てる賭けを提案し、あの男から金を取り返しつつ青年を卑下する策まで講じ、いとも容易く成功させたのだ。彼女は青年へ勝利宣言のように囁いた後、勝ち誇った笑みを浮かべながら離れ、今度は胸中で蔑む元担当医に艶っぽくもたれかかり長年の鬱屈を晴らし、優越感を存分に満たしてやった。これまで周囲から勝手に比べられ、これ見よがしに蔑まれていた元担当医にとって、見返してやる絶好の機会だった。

『わざわざ多忙な時に、ありがと。けどこれ以上、一緒にいても楽しめないから私たち、もう行くわ』

 目の前で親密さを見せつけながら断絶を宣言し、二人は颯爽と去っていった。それきり二人とは会うことがなく予測通り、生真面目な優等生で知られた青年の性的嗜好の噂が、面白おかしく学部の間で広まりを見せた頃、青年は大学に籍を残したまま"機関"に招聘され、そのまま現在に至っている。
 その後、学生の間で広まった薬物問題の一斉摘発が始まり、主犯として捕まったのは口の軽さによる人脈の広さと、女好きと金払いの汚さで有名な男だけだった。

 こうして無駄に賑やかな環境から離れ、人里離れた場所での静かな長い月日が過ぎ去ったある日、招聘されてきた期待の研究チームとして彼らが再び青年の前に現れ、見知った顔に元担当医が馴れ馴れしく近づき、声をかけた。

『久しく見ないと思ったら、ここにいたのか。昔のよしみで、またよろしくな』

 気さくな挨拶がてらに手を差し出した久方ぶりの元担当医は変わらず、研究の被験者である彼女の意のままで、逆に隣にいる彼女はしおらしく知らんぷりを決め込み、目も合わせない。そんな彼らを冷ややかに一瞥した青年は握手することなく避けた、それが彼らへの最後の挨拶となった。

 初めは期待の研究だと破格の規模と予算がついたが、理論通りの成果が全く表れないとわかると当然、手のひらを返され待遇は縮小されていく。そこに遊び相手の元看護師から起こされた街での裁判により、機関はその後処理に動きつつ同時に内部でも厳しい査察を開始、対象となる彼は即刻謹慎処分が下され、研究は中止となった。

 そうなると研究の被験者として招かれた、彼女の処遇にも影響が出る。街で起こった元担当医の裁判での当事者となる彼女にも当然監査が入った途端、見限った彼女は長年、元担当医から洗脳された被害者を装った。

 機関の秘密保持契約のため、施設外へ出せない彼女についての審査が始まり、表向きは解決した件の加害者と被害者に振り分けられた彼らは完全に切り離された。そして二人は会うことがなくなり、唯一の希望を失った元担当医は、この時点で研究者でも無くなったのだろう。

 元担当医が意思疎通の不可能な被験者になると、彼女の審査に青年は自らの役職を大いに利用し、能動的に動く。青年はかつて自分がカウンセリングを行った彼女のメンタル面での診療記録を公開、他にも今後を含む彼女の秘められた危険性について詳細に書かれたレポートも併せて提出した。その調査のため彼女へは秘密裏に幾つかの実証実験を行い、彼女の過去を含めたあらゆる経歴なども精査した結果、機関は彼女の保護を抹消する決定を下した。

「それは変わらず、彼女も被験者のまま機関に存在するということでしょう?」

 彼女からの影響による、暴力的な発作の再発を恐れる臆病な僕に、頷きながら青年は変わらず平然としたまま、適切に解答する。

「機関にも研究や被験者によってランクづけ、つまり研究規模や予算に加え、施設内での生活における優遇や自由度といった違いが、この地域での暮らしのようにあってね。そのランク外により彼女は他者を操り、周囲に混乱を招くことがないよう処置された。強いて言うなら元担当医と何ら遜色ない扱いで、意思を持ち得ない。彼らは逃れるつもりで、むしろ自ら入り込んだのさ。二度と出られない閉ざされた牢獄に」

 "その件における最高責任者の手によってね"、と断言した青年は紳士的に片手を胸に置き、自己紹介がてら会釈する。その挨拶にはキリッと芯まで響く、真冬のように底冷えする高潔な笑みを浮かべていた。それは青年が"機関"において、そこそこの権力を手にし、決定権を得ていることを示す。その処置が施された辺りは僕に混乱を及ぼした時期と重なり、あの狂気じみた発作による混沌は生きる『彼女』が失われていく最後の足掻きを共有したかのもしれない、あくまでも青年の話を全て鵜呑みにすれば。

 僕の暴力的な発作が彼女と共有しているものなら、どうにかして助かろうと抗っていたはずで、僕と共有する夢の"マスター"は彼女だ。つまり、彼女が荒ぶらなければ、今後僕があのように自らを制御できないほど暴力的に暴れ出す可能性は低いということになる。しかし、夢の共有に必要なはずの薬を服用していないのに、感情などを共有できたのは謎のままだった。
 しかし彼女をそのままにしておくことが機関に今後、多大な影響を及ぼす可能性を一番熟知した青年は存在を危険と判断し、元凶を断ち切るべく速やかに手を打った・・・。そして時を経た今、僕は調べ尽くしたその答え合わせをしている。身に降りかかる操られた悪夢を繰り返さず、永遠に閉じるために。

 青年が招き入れた室内は快適な環境なのに、窓の外に広がる夏の暑さとは違う種類で、じっとりと嫌な汗の存在感が話に神経を傾ける僕の全身にまとわりつく。そんな僕とは裏腹に青年は涼しい顔のまま、窓辺に目をやる。

「自然はいい。ずっと屋内に篭ってばかりだと神経を参ってしまう、けれどあそこでのランク外には、その権利すら与えられることはない。死してなお、ね」

 窓からの景色を誘うような青年の呟きに、目を移すと爽やかな夏の日差しは少しだけ陰って、午後への差し掛かりから様変わる希少な価値の情景を見出す。懐かしくも遠い、一日のわずかな時間軸の中で僕は精神的に、だいぶ歳をとったように錯覚する。
 それくらい今日の、この時間は差し向かいで話すには内容に秘匿さと濃度が濃すぎたのだ。青年の話は、それで終わったのか彼と僕の間に停滞した、疲労する沈黙がしばし留まった。

 先にアクションを起こしたのは青年で、彼はスイッチを切ったようにソファの背もたれに体を倒す。青年からすれば、客人を前にしては少し不作法かも知れない、しかし僕には"気の抜き方"すらも意識が高く、ソファで伸びて大きく深呼吸で整え、姿勢を戻して僕に微笑むまで、全てが躾けられた所作だった。

「君は不思議だね。私の方が、ここで告解でもしている気分だ。お互い墓に持ち込むには、ひどく退屈な長い話だが付き合ってくれて有難う」

 話を切り替えるように一度だけ指を鳴らした青年は、笑顔で紅茶のお代わりを勧めたが、僕は丁重に断った。

「いや、僕はもう終わらせたいので。胸の奥に仕舞わねばなりませんが、それはもう叶えられたと思っていいんですか?」

「もちろん。君が私や診察した医師に、本当のことを告げていれば」

 と、さりげなく釘を刺す青年は徐々に砕けた話し方になっていたが、それでも上品な礼節は失わなかった。だが、一応の結末に気の緩んだ僕は思わず、"じゃあ定期検診は、もう受けなくていいかな"と呟くと青年は鋭い忠告を発した。

「その判断こそプロに任せなさい。あの病院には、もう君を惑わす"紛い者"はいない」

 青年は柔和な笑顔ながらも、軽率で身勝手な自己判断の危険性を強い口調で戒められた僕は定期検診の医師に判断を委ね、次の年は無事、お墨付きを得られた。僕は今、新しく始まった日常に暮らし平穏な毎日を送っている。恋愛もしているが、母や彼女を超える存在には、まだ巡り逢えていない。

 そしてあの青年とも、あの日限りで、もう会うことはなさそうだ。謎めいた"機関"という存在は気になるものの、ヘタに関わって元に戻れなくなる深入りは、もう避けたかった。操られる自覚もないまま半ば自主的に罠にかかった絶望は、彼女によって嫌というほど味わわされた。せめて自分が選べる自由があるうちに選択したいし、あの夢はもう醒め、そして終わったのだ。
 複雑に入り組み、絡んだ操り糸すら全ては断ち切れたと信じたい。結局のところ、彼女は自らの欲望や恨みをもろとも渦巻いた世界に周囲の人々を次々に招き入れていた。 捕らえられた一人である僕は、夢と現実で揺さぶられ、混乱を与えられ、共有する感情に苦しめ操られたままだった。それを青年が属する"機関"が、余りに稚拙な思惑から始まってしまった"現象"の研究と騒動の後始末がてら、僕が無意識に望む平穏な眠りがある日常へ、引き戻した。口外不出の誓いと引き換えにして。

 はっきりとした明確な真相など、僕に知らされることはない。ただ目の前で告げられた"真相"はこうだ、というだけだ。誰もが各々の価値観を照らした情報を、互いに別の角度から見たのが同じものでも、事実だと話す内容に違いが出るように。

 結局のところ全ては、杳として知れぬまま僕は日常へ戻り、彼女と共有した夢が及ぼしたひと夏の日々を、解明することなく"取引"して完結させた。


 たまたま何かの都合で通りがかった時、その場所が一軒家ではない全く別の建物に変わっていたことに気づいたのは家に帰ってから、だいぶ時間が経ったあとだ。その経験に僕は、すっかり今の生活に馴染んだと自覚した、それくらい強烈だったはずのひと夏の日々のほとんどを、思い出すことができなくなっていたのだ。


 今では寝る体勢に入れば場所を問わず、数秒で深い眠りに落ちてしまう。僕は至って平穏な毎日を過ごしているが、あれから夢だけは全く見れなくなった。

                          終わり




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