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夜の小雨が降る日

 あれは、若かりし頃、夜道を仕事帰りに徒歩で帰っていた時のことです。

 その日は雨が降っていました。夜道はとっぷりと暗く、小雨でしたが、濡れたくないので傘は差していました。わたしは家から近いところに勤めており、徒歩で通勤していました。
 家路までに使う道は日中は車通りの多い道でしたが、夜になると人通りは少なくなるような、普通の田舎で沿道沿いには、コンビニなど店が点在していますが、その時刻には、ほとんど店は閉まっているような、さびれた場所でした。

 舞台となった交差点は開けている場所でした。街灯もついていますし、直ぐ近くにはコンビニもあり、周囲も照らされているような比較的明るい場所です。建物もまばらなので、死角になるような場所はありませんでした。

 家路を急いでいた私は、交差点の横断歩道の信号が青になったのを確認してから、渡り始めました。すると向かい側から、黒いバラの傘を差したひとがやってきました。
 
 普通、降ってくる雨を凌ぐために傘は上に差すものですが、その黒バラの傘を差していた人はなぜか、進行方向に向かって傘を差していました。

 雨は小雨で、風はありません。向かい側のその人が、傘の先端を向けるその方向に、私がいたのです。始めは特に何とも思いませんでしたが、相手も信号が青でどんどん、横断歩道を歩く距離を詰めてきます。
 その進行方向をずらすこともなく、真っすぐ私へ向けて歩いてくるような感じなのです。まるで傘を盾にして、私に向かってくるような感じでした。

 危ない、ぶつかる!

 というぐらい、向こうは進行するスピードを落とすことなく、私へ近づいてきました。思わずわたしはぶつかることを予期し、身を少し屈めました。
目をつぶってしまう前の、異様に存在感のある黒いバラ模様の傘の柄を、今でも覚えています。そのバラの柄の、私を標的に見据えたかのような強烈な意思を持った圧迫感を。

 まるですれ違う時に、時間を止めたかのように、周囲の音は何も聞こえてきませんでした。

 しかし、ぶつかる振動も、感覚も、なにもありません。

 よくわからない不安や恐怖のまま、どうにか信号を渡り切り、思い切って振り返ると、そこには誰もいなかったのです。その周囲には人ひとりいないばかりか、身を隠せるような場所もなにもなかったのです。

 当然、黒いバラの傘など見当たりませんでした。

 街灯の明かりも、コンビニから漏れる光も何も変わらず、時折通り過ぎる車の音で、ふと我に返ったような気分になりました。


 あの瞬間、私の周りだけが時を止まっていたかのようでした。

 私はその場からすぐ離れたくなり、足早に家路を急いで帰りました。思えば、黒いバラの柄の傘のことは印象に残っていますが、それ以外のことは何も見ていないのです。

 傘だけとはいえ、全ての姿を隠し通すことは出来ないはずなのに。

 あれから職場が変わり、その道を使うことはなくなりました。ただ、あの日から、あの横断歩道にはいまだに不思議な感覚が残っています。

 あれはいったい、なんだったのでしょう?

 あの場所での、事故や事件などといったたぐいの話や、私の身に起こった体験に似た話は一切聞かないので、あれは私だけが体験した出来事なのでしょうね。平凡な人生なので、今でも忘れられない強烈な思い出となっています。

 特に夜の小雨が降る日には。

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