杳として知れず ⑥ 夢と現実の再会
音も人もなく匂いもしない、完全に遮断される管理された夢の中の無人の街。繰り返す時間は短く、終わりはすぐに訪れ、再度また束の間の生を繰り返す。儚さを感じさせる間も無く、そのループの輪に捉えられれば逃れられず、ここでは自死することが軽く思えるほど、安直に死と再生は巻き戻されている。
次第に意識下で慣れきった死は、いつか戻れるようになった現実においても、同じように繰り返せるものだと緩慢に思うかもしれない。
そうなれば追い詰められた際の、リセット癖のような思わぬ形での死を迎えてしまうような気がする。その時には繰り返しの生は起こらない、あったとしてもそれは運命に委ねるほかないだろう。この夢の街での繰り返しにより恐れねばならないのが、次第に死を恐れず痛みにも慣れ、割り切って自らで繰り返そうとする、刷り込まれた『常識』ではないだろうか。
夢の街においては、選択肢が限られ、結末の見えない絶望を抱え込まされ、リセット目的での自死を求められる。そうでなくては『次』が始まらず、終わりを迎えるためには、死ぬことが半ば強引な幕引きだという設定にある。何度も繰り返されるうちに、それはいつしか意識下にきちんと根付いてしまい、それが夢の街であろうが、戻れた現実であろうが試したくなるだろう。自分の生きる今の場所は、永遠に繰り返される夢の中か、それとも現実かをハッキリ自覚するために。
だが現実では瞬時に生が蘇ることはないのだ。物質的な存在が支配する現実では、そこまで時の流れは早くない。僕はこのことを忘れてはいけない、と肝に命じる。ここは夢の中であり、あらゆる意味で都合の良さから成り立っているということを。
「それで、ここから抜け出られるの?」
いつのまにか彼女は、涙で濡らす瞳に羨望と僅かな希望が入り混じった眼差しを、僕に向けている。その眼差しで問われた僕にも正確なことは、何一つわからないし、確かな保証だってない。ただ決められたシステムのままに、転落へ向かう結末に対して抗いたいだけだ。
現実で生きる人生においても、誰にでもよくあることだ。何ひとつ確かなことなどない世界で、世の大多数の平凡な人間は生きている。僕もその一人だった。
「・・・やってみる価値はあると思う。正解はわからないけど」
ビル風が吹き荒ぶ、隙間だらけの頼りない細い手すりに掴まりながら、階段で僕らは身を屈め、まるで僕らに向かってくるような風の猛攻に耐えている。こうでもしなければ、お互いの意思の疎通が出来ないほど風の勢いが強まっていた。
「何を・るつ、・り?」
風の勢いは、近くにいても大声をあげなければ声は届かないほど強く吹いている。身を屈め、身を寄せた彼女の発言を聞き取れず、何度も同じことを聞き返す。そして今はただ、ビル風に体を持っていかれないよう耐えるしかなかった。
突然、剥がれたトタン屋根の一片が風に乗って運ばれてくる。それは頼りない細身の階段の柵にあたって方向を変え落下し、地面に叩きつけられ歪んだ。形を変えながら風に煽られ、歪んだカケラはうめき声のような音を立てて転がっていく。
それを合図にしてか風の勢いが弱まってきた。彼女にトタン屋根のカケラを毎回、繰り返して見たかを尋ねたら、首を横に振って否定した。
僕らは今、初めて行動を共にしている。行動を変えれば環境にも変化が訪れるのだろう、例えば突然現れたトタン屋根のカケラは、僕らは今まで一度も見たことがない。絶えず吹き荒んでいた強いビル風も、繰り返す夢の世界では常に吹いていない。そしてあの影として見えていた、彼女を責め立てる彼らの罵倒する姿や声も聞こえない。状況が変化すれば、また新たな展開がやってくるのだ。
「とにかく今は、風がおさまるまで耐えよう」
彼女は、俯いたままで首を振る返事をした。僕らは身を寄せ、ピッタリとくっついて離れずに小さく固まって風が去るのを待った。風は冷たく、体に当たるたびに体温を奪っていく。手は悴み、感覚を無くして支える彼女の体をも、生きた感覚を感じられない置き物のように思わせた。思えば全てが似せて作られた夢の街なのだ、隣にいる彼女が本物たる確証だって何一つない。体温や感覚を奪われていくと、次第に猛烈な眠気がやってくる。しかしこのタイミングではない、僕は彼女の洋服の裾を強く握った。
半ば眠りかけながらどうにか耐え忍ぶと、次第にビル風は徐々に勢いを弱め、凪のように落ち着いてきた。動き回るのに支障がなくなると僕は彼女の手を取り、一緒に落下地点まで階段を降りてみる。一時的にお邪魔した彼女の記憶を通してルートを知る僕は階下まで降り、体当たりすると非常階段の扉は簡単に開いた。
こうして僕らは終わりの時間に死を迎えるまでの、いつもの差し迫った転落の恐怖からは逃れることができた。だからといって、あくまで一時的に転落による衝撃の痛みや苦しみから逃れただけで、現実へ戻るとなると方法は別だ。
「とりあえず、あのタイミングでの転落からは逃れられた」
「ええ、あくまで先延ばししただけね」
さっきまでの怯えていた姿は何処へやら、まるで手のひらを返したかのように痛いところを突く彼女の、この発言がまるで責められてるように捉えてしまった。
「じゃあ、いつも通りに死を迎えたかったのか?繰り返すのは嫌だったんだろ?どうやったら戻れるかなんて、わからないって言っただろ‼︎」
「何?別に責めてないでしょ?図星だからって八つ当たりしないでくれる!」
一難去ってまた一難。今度は反発し合った彼女と僕は、お互いを許せないまま背をむけてしまい、気まずさからか次第に遠のいていく彼女の足音が、どんどん小さくなっていく。一人でどこに行くんだ?と振り返ると、彼女は商業ビルに再び入って行くところだった。その後ろ姿に嫌な予感がし、あの転落現場から非常階段の踊り場を見ると、意思を失った虚ろな目をした、いつもの彼女の佇む姿があった。
そしてプログラムされた、ルーティンである"いつもの結末"が発動した。
次の瞬間、またしても転落は繰り返され、落下した彼女の体が地上に落ちたのと同時に貫かれる全身への痛みと共に、僕も見えない強い衝撃で地に伏せられていく。
そして無音の真っ暗い闇に飲み込まれていった。誰もおらず何も掴めない、絶対的な孤独だけが丸ごと闇色に溶け込んだ無間地獄だ。光が届くことも無く、浮遊して漂い方向も定まらぬ、何一つ確かなものがない宇宙に似た無重力な空間だった。
『・・・君は来ないの?まさか、飛び降りるつもり?』
そんな闇しかない場所に、ぼんやり響き渡る彼女の声がけにより僕はゆっくり瞼を開けることで、真っ暗闇の孤独からは開放される。真正面には、いつの間にか屋上の非常階段の扉があり険悪だったはずの彼女は、一足先に階段の柵を外側から伝って扉の向こう側である屋上へたどり着き、一向に来る気配のない僕へ笑顔で声がけていた。
転落現場である階段の踊り場での、猛烈なビル風の勢いに耐えた後、階下に降りた時と違う選択肢だろうか。今度は階上へ登る選択をしたらしい僕らがそこにいた。
機嫌のいい彼女の姿越しに見える空は青く快晴で、明るく眩しい夏の日差しが差している。季節は夏真っ盛りの爽やかな気候と穏やかな風が吹き、今までの曇天や、不機嫌丸出しだった彼女とは、何もかもがうって変わっていた。
『ああ。あなたはそのまま落下地点へ行って。そこから動かずにいてくれ』
彼女から問われた僕は、なぜか彼女にこう告げて体を翻し、転落現場の踊り場へと再度、階段を降りていく。しかし全て僕の意思ではなく、勝手に操られているのだ。僕のはずなのにどうすることもできない、少し前の彼女の体を借りた時のように。
今の状況では彼女も、どれだけ自由が許されているのかは未知数だ。それとも僕とは立場が逆転しているだけで、やはり同じような結末を辿ることしか出来ないのだろうか。
彼女が落下地点に現れるまで要した時間は数十分程度だが、転落現場で待つ身の僕には長い時間に思えた。無事、落下地点に現れ、無邪気に手を振る彼女を見て、全く正反対の立場となる僕は、少し複雑な心境になった。僕自身は戸惑いが隠せないが(あくまで内面での話だが)、彼女は解放されたかのように、終始ご機嫌だった。
だが様々な制限があるにしろ、何かしらの方法は残されており、ここから逃れることが出来ないとしてもさまざまな選択肢の中の、有効な手段を探るための一つだという希望に切り替えることにした。そして再び味わうことになる、あの落下による衝撃の痛みと苦しみの再来を、腹を括って覚悟した。
僕は柵の外側に身を乗り出し、自らの体を空中に委ねた。コントロールの利かない体での滞空時間は一瞬だった。やがて背中には、なにかとぶつかった衝撃を喰らう。
そこから全身を貫く二度目の切り裂かれるような痛みのあと、地に伏した僕の視界は大量の赤い色彩が支配する。ボヤけた赤い視界には、共に衝撃を受けたはずの彼女の姿が、どこにも見当たらない。
そして強烈な眠気によく似た、意識を失うあの感覚がやってくる。しばらく忘れかけていた、久々の発作には懐かしさすら覚える。
朦朧とするなかで目が覚めた時に見えるものが、現実の病室での白い白色灯の光る天井であることを願った。
僕が再び目を覚ました時、望んでいた景色は少し違っていた。現実の世界に目覚めたであろう僕は、わずかに開けられたカーテンの窓から見える早朝の紫色の空をぼんやりと眺めていた。それから見覚えのある部屋の作りに、懐かしさを覚えていた。
すると僕を見た周囲の病院スタッフは慌ただしく動き回り、知らない女性が部屋に入ってきた。その女性から何度も名前を呼ばれるが、それは僕の名前ではなかった。
だんだん意識がはっきりし、視界もクリアになっていく。辺りを見渡すと急に動いたことで身体中が痛み、少し動くだけで過剰なほど痛覚が反応する。思わず声も出たが、まるで知らない他人の、少女の声だった。
ベッドに表示されていた患者名は、僕ではない『彼女』の名前が記載されていた。
なんと僕は"彼女の身体"で、意識を取り戻していた。
「色々なことが重なったショックが強く残っているようですね。とにかく今は静養に専念するのが一番でしょう」
僕は自分の担当医と、今もう一度向き合っている。だが状況は違い、彼女の体で彼女の母親や病院長である父親も同伴した、VIPの個室でだった。担当医の見立てでは、体に受けたショックや精神的なストレスによると見られる記憶喪失と、口調の辿々しさから失語症を患っているのでは、ということらしい。
そしてとにかく静かな環境に置き、本人を追い詰めるようなことをしてはならないと念押しした。彼女の母親はドライな気質なのか、ようやく目覚めた娘に対しても感情を露わにはせず、話の要点をまとめたがり、必要なことを知り対応すればいいという、他人事のような事務的な感じが見受けられた。娘から自分のこともはっきり覚えていないようだと告げられても、ショックを受けた様子も見られない。そして担当医より遠縁である父には気を許せるのか、話は全て父に向けて要望を伝えていた。
そして担当医は、知った仲かのように距離感がやたら近いようなところがあり、その態度は僕を驚かせた。思わず彼女の体を通してみせたその反応には、担当医自身も驚いていた。更には彼女が関わることには、必要以上に過敏になるところがあり、上司である僕の父からの助言であっても、頑なな態度で自らの意思を曲げないところがあった。
担当医のその一連の態度には、独占欲に似た異様な粘着さを抱かせた。
僕は少しオーバーに、体調不良さをアピールすると、関係者は気を利かせて早めに病室から退出する配慮をしてくれた。
ふと動かしづらい体を駆使しながら、どうにか映った姿をまじまじと観察する。そこには僕ではない、夢の街にいた彼女そのものが映っているのだ。自分の体ではないからなのか、動かす意思と体の反応にはタイムラグがあり、もどかしい。
全てではないものの、見える範囲での部屋を見渡す。懐かしい部屋はまるで配置全てを変えていない。かつてはここに母が眠り、僕はいつもその隣にいた。
そしてこの部屋で母は亡くなった。
今、彼女の体を通してみている景色は、かつて母も見ていたであろう。さまざまな要因で重なり合った偶然を前に、いつの間にか瞳から熱い涙が一筋、溢れていた。
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