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杳として知れず ⑨ 再会再度、夢の街へ


 依然、僕は彼女の体に入ったまま睡眠を取っても、夢の世界へ戻ることはできなかった。ならば今、出来ることは彼女の体の回復を最優先にするしかない。

 彼女を通して何度か見る医者としての姿は、僕の知っている父とは違って見えた。相手が知人の娘だということもあり多少の遠慮はあるだろうが、もし娘なら、または若き日の母とはこうだったのかな、という想像を膨らませた。
 なにしろここは母と濃い時間を過ごした、出会いと別れの場所だったのだから。

 父のことは母の死後、病の治療法の研究に没頭していること以外は、知らない。僕ら父子も彼女と彼女の母親と変わらず、関係性は非常に希薄なのだ。

 これまでの僕らの間には常に母親が介在することで、互いを知れた。繋ぐ母が亡くなった後はどちらとも歩み寄ることはなく、僕も父も常に一定の距離を保ったままという安寧を求めた。そして穏やかに背を向け、互いの意志を知る由のないまま現在に至る。

 急用のため担当医が突如休暇を取った一週間は、父が体調面でのフォローで診察を務めている。治療方針については門外漢だからか、一切関わらない。

 目の前に座っている父は医者というよりも知人といった立ち位置で、訪れた病室では緊張をほぐす世間話に終始した。ふと父はベッドサイドに置かれた、洗濯済みの折り畳まれたハンカチを手に取った。

 無地のガーゼ生地の隅に渡す相手のイニシャルが縫われ、極めてシンプルでベタな作りだが世界に一つしかないものだ。僕はこのハンカチの触り心地を特に気に入り、使用頻度が高いせいでクリーニングに出しても、品物には整いきれない生活感が滲み出る。


 暴力を受けた彼女に咄嗟に手渡したハンカチは母が最後の入院中、退屈しのぎに作った。余命を知っていたかは定かではない母の贈り物は、時を経たずして形見となった。僕らの心に母は、ずっと存在し続けている。死してなお、それぞれで紡いだ強固な絆は生存している間柄である僕と父よりも強く、濃い。また、そのような結び付きを母以外と紡いだことがないままだ。

 母は美しい思い出と印象を脳裏に刻んで逝った。美しいまでの死に至る生き様は本人に、そのつもりがなかったとしても刻まれた思い出が加味されてしまうからか、余計に際立ち色褪せることはない。
 その幻影に僕も父もずっと囚われている。ある種の甘美な幻なのだ。

 周りは簡単に、もう早く先へ進めと安直なことを言う。だが他人ほど、この美しく永遠に繰り返したい中毒性を秘めた幻を、手放さない理由は理解できない。
 たとえ同じように愛する者を喪失した経験を持っていたとしても。


 父は静かに、そのハンカチに顔を埋め、わずかに震わせながら泣く。彼女の体を通した僕は父のそんな姿に思わず、腕の辺りをゆっくりとさすった。それに父は真っ赤に目を充血させ、恥ずかしそうに作り笑いを浮かべる。

「はは。いい年こいたおっさんが・・・」

 隣に座る父に、かつて同じような顔をした母を重ね見た。思わず彼女の体を借りた僕は何かを言いかけそうになるが、口をつぐんで首を横に振る。大人だって泣いていいと思う、けれど父に下手に話しかけ、ドツボにハマるのは避けたい。
 それもあって父へは、彼女の立場からでの適切な言葉が浮かばなかった。

 母の喪失は、ずっと父にダメージを与えている。

 父は母の死後もずっと仕事終わりに病院の研究棟に居続け、命を奪った病の治療法の研究に勤しむ。思い出のない家にいるより病院の方が、母の面影を失わないのだろう。そして病院にいる方がひとりで静かに、母を悼む時間を取れるのだ。

 主治医としてではなく個人的に、家族であり妻を亡くしたひとりの男として。


 しばらくはリハビリを受けながら体力を回復させることに集中した。思い悩んだところで状況は変わらない、その時は来ると、じっと堪えて耐えた。

 目覚めた(僕が入っている)彼女は記憶喪失として扱われるため、彼女の転落事故においては不利な状況となり、捜査機関への調査には協力できない。これも僕の時と同様に担当医の診断によるものだった。

 日常的な動作が難なく出来るようになるも、自分の持つ感覚と彼女の身体との反応の擦り合わせに苦労した。うまくフィットしないというか、行動するのに一拍遅れるようなジレンマを感じる。そのズレを解消するためで現実的に問題はないようでも、このまま"彼女の身体にフィットする"のが正しいことなのか、という疑問は常につきまとう。

 いずれは去らねばならない体だ。本来は別人のものだし、僕には戻らねばならない本来の体がある。ただ、あれから僕の体はどうなっているのか気にかかっていた。


 そろそろ、あの夢の街へも向かう方法を見つけ出さねばならない。いつまでも記憶喪失だとは偽れないし、最悪うやむやにされ、同じ悲劇を繰り返さないために。  
 そして目の前で弱っている父に、こう囁いた。

「それ、お借りしていたものなんです。先生の息子さんに助けてもらったときに」

 彼女が記憶にまつわる内容を、急に話したことに父は少し面食らっていた。だがその一言がきっかけになったのか、その後は取り繕いつつ、これまで意図的に僕の話題を避けていたのが感傷的になったのか、持ち主の僕の体調などが不安定であったことや、入れ替わりのように、ある日を境に目覚めなくなったことを話した。
 これはチャンスだった。今なら行動に目を光らせる担当医もいない。

「巻き込む形になったこと、大変申し訳ないと思ってます。お詫びを兼ねて、お見舞いにいくことは出来ませんか?」

 このアイディアが彼女自身のものか僕からかはわからないが、特に違和感を感じないあたり、共通認識の上での発言だったように思う。彼女からの申し出に父は構わないよ、リハビリがてらに少し歩こう、と二つ返事で応じる。しかし、こうもあっさりと了承したことに、不思議に思ったことが顔に出ていたのだろう。

 "カウンセリングで息子も会いたがってたと聞いていたから"と父は理由を語り、"手続きを経てないから内密で"と、父に連れられ病室を出る。

 すっかり暗い夜の病院は、必要最低限の明かりだけを灯してひっそりと静まり返っている。ひそやかな足音を立てて並んで歩く彼女と父の姿に、周りの院内スタッフたちは一瞬、目を見張るものの会釈して無言のまま見送った。

 ついていくと段々、見慣れた病院内の風景を見るようになった。やはり予想通り僕は、地下にある四六時中監視される検査病棟の病室にいた。窓のない青白い白色灯に照らされる病室の明かりは、より血色を悪く見せている。別人を通して見る自分の姿には違和感を覚え、ちょっとだけ頭が混乱しそうになった。

 僕が眠るベッドサイドには、家族三人で写った家族写真が置かれてあった。本来戻るべきはずの目の前にある空虚な僕の体は、等身大に作った精巧な人形のように見える。近いようで遠くにある自分と体。点滴の管に繋がれた腕に触れると、温かさを感じない。体は空っぽで、魂がないまま生かされている虚しさが募った。

 すると彼女の瞳から涙が溢れた、僕自身はちっとも悲しくもないのに。そして力が抜け、崩れ落ちるように跪いた。こぼれ落ちた涙は、どこか遠くの方から流れてくるような気がして、奥底にいる彼女が呼応したものかもしれない。

「大丈夫か?具合が悪そうだ、もう出よう」

 慌てて駆け寄った父からの提案に、彼女の体を通して僕は"大丈夫です"と答え、落ち着いた頃合いを見て車椅子に乗せられ検査棟から離れた。
 戻った病室で父は、最後まで体調面を含めた心配をしていたが僕は彼女になりきり、会わせてもらったことへの礼を言った。

 ともかくこれで僕は自分の近況を知ることができた。それに合わせた相乗効果ともいうべき何らかの変化を期待したが、涙を流したであろう彼女は意識を自身の奥底に潜め留まったままだ。あの涙が何を意味するのかは、僕にまだわからない。

 ただ、もし再び会えるなら次は、こういう場所ではないところの方がいいような気がした。

 父が去った後、しばらくすると僕はめまいを強く感じるようになった。もしかしたら夢の世界に行けるかもしれない、そんなわずかな期待を持てるほど似通った"あの感覚"が蘇った。

 目を閉じても身体中がぐるぐる回転する感覚に身を任せるように漂い、ずっと耐えていた気持ち悪さが落ち着いた頃、周囲に吹き荒ぶ風を肌身に感じつつ怖がりながらも目を開けると、そこには懐かしいあの街の光景が広がっていた。

 僕は再び、あの夢の街を訪れていた。ようやく、あの夢に戻ることができたのだ。


 風は目を開けたらすぐに止み、久しぶりに訪れた夢の街は無音に近い静寂の世界に包まれている。普段の街の風景なら当たり前のざわめく音は聞こえない。
 これはいったい誰が作り出した夢の世界なのだろう?

 始めは僕が想像で作り出す、頭の中での夢の世界だと思っていた。しかしそうなると矛盾が生じる。夢の街では僕はいつも、どこかのけ者のような立場であり傍観者という立ち位置だ。ここでは、全く見知らぬ似通った街に迷い込んだ感覚がずっとある。

 つまり、この夢において重要なのは彼女だ。彼女が夢の世界を動かしている。

 きっと初めから彼女の夢だったのだ。
 だがそこに僕がなぜ入り込めたのかは、わからない。現実でのあの日、確かに彼らが寄ってたかって暴力を振るう場面に遭遇し彼らから退け、転落したときに僕が落下地点にいて彼女が地上で受ける衝撃を幾らか和らげる役割を担った。意図せぬうちに彼女を助け、偶然にも僕らがそれぞれ似通った経験を経ていたからこそ、かもしれない。

 この世界に出てくる人物は彼女と僕、そして霞んだ影としての加害者である彼らだ。これは彼女の夢の世界で、僕は関わることを許されている。無意識下での彼女は、また僕を求めているような気がした。

 でなければこうも度々、自分ではない夢の世界で、同じことを繰り返される理由が説明できない。僕が治療においてカウンセリングを受けるように、僕が彼女のカウンセラー的な役割を担っているのか。


 ずっと前から彼女なりにSOSを出していて、それを辿ったのが僕なのか。ならば立場上、メンタルケアを担うはずの担当医は一体、どんな役割があるのだろう。彼の姿は、まだ一度も夢の街では見かけたことがない。

 一定の間隔で、どこか遠くの方から聞きなれた落下音が響いている。


 それは離れた場所に位置する、現場となった商業ビルの方向から響いていた。慣れてはいけないだろうが、彼女の転落による衝撃音だろう。しかし今回は同じように衝撃を受けた際に起こる反応が、僕には起こらない。前なら彼女が落下して地に落ちる度に、同じ痛みを味わうように僕にも衝撃が加わっていた。転落事故での衝撃を、そのまま再現したように。

 だが今、ここにいる僕に、あれほど味わわされた苦痛を一切感じることはない。


 しかし今いる場所は、現場となったところから少し離れたところにある横断歩道で、僕は無人の街でひとり佇んでいる。空は晴れていない、不穏さを湛える白く不透明な曇り空だ。天気は彼女の心理状態によって変わるものなのだろうか、ビルの階段でのような驚異的に邪魔をする風はまったくなく、むしろ時間が止まったかのような雰囲気を感じさせる。


 誰もいないのに街の機能は稼働し、時間になれば信号が変わるが聴覚障がい者用に流れる音声はまったく聞こえず、必要のない機能は省かれている。道路や歩道には僕以外、誰の姿もない。圧倒的に必要なもの以外を削ぎ落とす、作り込まれた夢の世界の見慣れた街。

 それでも正確に備え付けられた時間や一定のリズムで変化し、正しく機能していた。僕が歩き出すと地面を擦る音がする。完全に無音というわけではない、存在するリアルさの証明としての音。そしてまた遠くで、重さのある何かが落下した衝撃音が響く。


 無人の街を僕は進む、あの落下地点を目指して。途中にあるショーウィンドウは僕本来の姿が写し出される。懐かしい自分の体の、誰にも介在せずに生きて動く姿。店のなかは新商品らしい旬のデザインが、陳列されているのに扉は閉ざされている。街の景観のために配置され、システムとして不要な機能は除かれる。店に入って僕が欲すれば、旬のデザインの洋服は途端に必要なものになり要らなければ、それは街の景観の一部に代わる。そんな体験を経て僕は店の中を出て、先を進めた。


 横断歩道を渡って商業ビルのある遊歩道を歩き、転落事故のあった現場である道へたどり着く。表側とは違う、年中翳る裏側は関係者を一手に、出入りさせているエリアであり、明かりは灯されているものの無人だ。


 細い柵で作られたような非常用の階段もビルの影になぞって潜み、隠れようもないほど明け透けな細い柵にも誰の姿はない。いったいあの不吉に思える落下音はどこから響いているのか、ここから聞こえると思っていたが一定の間を置いて、また響く落下音はしたものの、その場所はここではないのだ。


 僕は彼女を探しだし、見つけるところから始めねばならない。一定の間を置いて鳴り響く落下音はおそらく、居場所を指し示すヒントだろう。今度はハリボテな街全体を使った、大がかりなかくれんぼに変わった。夢のはずなのに僕はしっかり体を使い、方々を走り回り、やがてバテてくたくたに体が疲れる感覚まで妙にリアルだった。走れば息切れもし、駆ける足音はしっかりと響いていた。


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