蛙の海に二人、一人

「貴方に助けてもらったあの日を私は決して忘れません。
あの金属の箱に閉じこもり、想像した死の恐怖、そして扉を開いて貴方一人の姿を目にした時の安堵を、今でも鮮明に思い出すことができます。
そして私の途方もない安堵を差し引いたとしても、貴方が私の為に疑似餌を使ってくれたという行為は、絶望的な現状の中で、感謝しきれない程に利他的なものでした。
貴方は優しさを私は尊敬していました。貴方の賢さを私は尊敬していました。
そして貴方の臆病さも、私は尊敬していました。より優しい表現をするならば、貴方の慎重さを評価していた、と言うべきなのかもしれません。それでも。絶望的な現状において、臆病さと勇敢さは、紙一重で長所にも短所にもなりうると思うのです。私の目に映る貴方の臆病さは、私達の本性の違いであって、優劣の基準ではありませんでした。
こうして例の日について語ろうとするのは、とても言い訳がましいことかもしれません。私は自分の蛮勇を、今でも欠点として認めてはいないのですから。貴方の知るところ、知らないところで、私は自分の判断によって生かされてきました。だから、言葉の上でいくら反省を述べようと、つまるところ、自分を真っ向から否定することはできないのだと思います。最初に出会ったあの日の状況も、私が間違えた結果でした。今私達がいる袋小路もまた、私が間違えた結果でした。しかし私の人生の全てが間違いばかりの連続であったとも思えないのです。でなければ、私はとうの昔に死んでいたと思うのです。
ただ時として、一つの間違いがどうしても取返しの付かないこともあるのでしょう。今、四方から鳴り響く蛙の鳴き声に心を擦り減らしながら生活する間、私はその事実から目を逸らすことができませんでした。幾つものあり得た未来が脳裏に浮かんでは消えていきます。今となっては夢に沈んでいようと、あり得た別の未来を想像していしまいます。それはきっと、形は違えど、貴方も同じだったと思います。貴方は優しく、想像力に富んだ人間ですから。
破綻の責任は私にあります。何故なら私にはそれを解消できる可能性があるからです。罪悪感に駆られた非論理的な判断などではありません。侵入者に銃を向け、引き金を引いたのは私でした。客観的に見て、より強い敵意を向けられたのは私であり、もしも彼らが溜飲を下げる状況を期待するならば、それは私の落伍の方が希望があります。より確信を強めることに、彼らの鳴き声は、私が戸口に近付いた時だけ、いつもより勢いを増すのです。私は、貴方がこの事実に気付いていないとは到底思いません。貴方がそのことについて気付く素振りを見せた記憶は一切ありませんが、貴方の性格と資質から推測するに、貴方はその事実に気付き、上記の私の説明を理解してくれるだろうと思います。
私達は、感情を抑えることができます。しかし何事にも限度があります。多少は長く生き長らえた私達は、人よりもその性質が強いのかもしれませんが、本当に長い目で見れば、その違いが有意なものであるとは限りません。私達の知らないところで、何人もの人々が耐えきれずに感情を露わにしてしまったのだと思います。そして近い将来に私達が同じ未来を辿らない保証はありません。だから、心を乱す原因があるならば、それを取り除かなければいけません。最悪の事態を避け、少しでも希望を残す為には。
元を辿れば、この生活もまた、希望を得る為のものでした。孤独に耐えかねた私にとって、貴方と出会ったことは幸運でした。私はこれまでの生活が意味のあるものだったと信じています。そして貴方にとっても同様であったと信じています。
残念ながら、この生活も終わりです。本当に名残惜しいと思う一方で、十分な時間を共に過ごしたとも思います。私達は幸福の為に出会ったのですから、それが幸福の為であるならば、離れることにも道理はあると思います。もちろん、いつまでも貴方と共にいたいと思う自分も私の中にはあります。決して自明の判断ではありませんでした。これは考えなければならないことを考えた末の判断で、心の痛みを伴うものでした。
私は貴方に許しを請うべきでしょうか。それとも感謝をするべきでしょうか。それとも愛を伝えるべきでしょうか。今の私は、全てを同時に胸に抱え込んでいて、満足に伝えることができないような気がします。どうか貴方が知る過去の私を信じて欲しいと思います。貴方に向けた表情も言葉も本当だったとここに誓います。破綻を目の前に控えていて、お互いの顔を見ることもままならないのだから、過去を思い出して欲しいと思います。少しの間でも良いですから。
去り行く者から、一つのお願いがあります――

私は、布ずれの音に気付いてボールペンを止めた。

それだけなら良かったが、彼女の足音が続いて聞こえてきた時には、全て知られるのは時間の問題だった。

―ー最後まで隠し通すつもりは元より無かった。隠し事をしていると思われることの方が、途中経過を知られることよりも恐ろしかったからだ。

暗闇の中で、私は耳を澄ませた。ゆっくりとした足音に続いて、彼女の輪郭が現れる。輪郭は急に飛び跳ね、私に向かって、体重を預けてきた。

半ば押し倒されるように、私は彼女を受け止めた。

彼女は泣いていた。それが分かったのは、震える声などではなく、濡れた肌に触れたのが理由だった。身体は顔が触れ合う距離にいたからだ。

「邪魔してごめんね」

「ううん、気にしないで」

私達は目を合わせられるだけの距離を挟み、向かい合って床に座り込んでいた。彼女は未だに私の両腕を掴んで、こちらに寄りかかる体勢だった。

「サナは理屈っぽいから、どうせ、私が出ていくのがどうして正しいのかを原稿用紙を何枚も使って説得しようとしていたんでしょ」

「ちゃんとした別れの手紙だよ。お互いに心の整理を付ける為の。」

彼女の泣き笑いと共に、私達は現状を確認した。

沈黙があった。二人共々、「行かないで」「行きたくない」というありきたりな言葉を待っているようだった。しかしその言葉が無いことを私はもう予想していた。私達の間にある暗黙の認識は、すれ違ってはいなかった。そのことによる安堵も少なからずあった。

少しの間だけ、と私は呟いて、手紙の残り数行を書ききった。折り畳んだ便箋を、手近にあったペン立てに差し入れる。

「今はまだ読まないでね」

「貴方の考えていることは、きっと、読まなくても分かるよ」

「そう」と言って、私は弱弱しい笑みを浮かべた。暗闇の中で辛うじて見て取れるような。

―ー言い訳がましいと思って書かなかったことがあった。これは自己犠牲などではなくて、私のエゴに基づく決断なのだと。全てを良い思い出のままにしておきたかった。貴方を愛しているから。貴方を愛した記憶を留めたまま死にたいから。そして願わくば、貴方にも私を愛したまま死んでほしいから。

――彼女がそこまで理解してくれるだろうか。所詮は想像の及ばない領域だった。人の感情を予測することは、人の行動を予測すること以上に難しいことだった。彼女が私を止めないであろうことを想像しながら、私にとって彼女の内面は未だに掴みどころの無い存在だった。

「貴方が何を考えてようと、愛しているから」

彼女はそう言い添えてから、私に顔を近づけた。私達はさようならに代わる接吻を交わした。

途中で「私も愛している」と言葉にしようとしたが、彼女に妨げられた。

――幾度と交わした口付けの意味が、私は最後まで分からなかった。二つの身体が溶けあう時、片方の利益はもう片方の利益と相互な存在となり、あらゆる利己性と利他性の区別が付かなくなる。それは遠目に見る朧げな欲求とその充足であった。その性質は触れあいの価値を損なうことではなかったとは言え、私は、分析的な領域の外にある彼女を遠い存在のように思ってしまい、寂しさを覚えることがあった。今この瞬間にも、彼女が遠い存在に思えてならなかった。

別れの挨拶が終わった。終わってしまった。もう、交わす必要のある言葉もなかった。私達は名残惜しそうに見つめ合ってから、互いの手を離した。

痺れ切った脳は、私が自分の感情を深く理解することを拒絶していた。心なしか体が軽かった。憑き物が落ちたかのような。それは至福によるものか、尋常でない悲しみによるものか。それが両方に由来するものであることをその時の私は理解しなかった。

意識に突き動かされ、たった一つの扉へ向かう。

私は朝日の中に踏み出して、後ろ手に扉を閉めた。

――かつて想像した死の瞬間というのは、歓喜のラッパが吹きすさぶ眩い台風か、全てを覆い尽くそうとする黒い奔流だった。眼前のそれはそのどちらにも似ていて、どちらとも違った。透明な轟音があった。それは不可視でありながら視界を遮っていた。意識を塗りつぶすことで、視覚的なクオリアが生じることを阻んだのだ。視覚のみならず、あらゆる思考を奪われる。途方もなく加速された認知症のように。私は何も思い出せず、何も判断できない。ただ茫然と立ち尽くすだけだった。私は祈らなかった。絶望に苛まれることもなかった。ただの無色透明な魂となった私は、最後に誰かの顔を思い出すことさえしなかった。

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