偽懐

かつてフォローしていた方がきっかけで知った音楽を聴き、別の方のRTで知ったイラストレーターと再遭遇し、別の方が言及していた書籍を本の山から見つけ出すなどした。つい先日、怨悪と共に目を逸らしたコンテンツに再び触れる日があった。かように、私が作品を摂取する時は常に懐古と隣り合わせだ。そんな態度で作品に触れていると、自分の好みの変わらなさというものに居たたまれなさを感じることがある。

好みは移り変わるものだ。ただ、私の好みの変化というものは恐らく一般的な作品摂取者に比べれば極めて些細な水準なのだろうと推測する。単純に、オタクを名乗る程に多読・多視聴をしていない。作品を選ぶ際にはかなり保守的で、敬遠する要素は幾つもある。未知への貪欲さを持たず、本棚に並べられた作品を見返すことの方を好む。

そういった生活を続けているから、偽物の懐かしさを感じるのだろうか。

いつか出会った架空の二人がいる。彼女らは作中で明示的に性愛的な結びつきある訳ではないが、私はどうしようもない嗜好と思考によって、二人は交際関係にあるものと考える。ここまではよくある話だ。奇妙なのは、私が彼女らの存在を始めて知った時、5年前にも見た記憶があると感じたことだ。この時点で、二人の登場する作品は登場から2年しか経過しておらず、彼女らの深読みを誘発する関係性が描かれたのは去年のことだった。

当然、他人の空似を考えるが、思い当たる節は全くない。抽象化してみても駄目だ。健気で頑張り屋の年下と、自分にも他人にも厳しい年上の才女。後者が愛おし気に前者に向けて目を細める光景を私は知っている。知っているが、過去のどこにもない。

単純に私の記憶が使い物にならない水準に衰弱しているのも事実だが、仮に記憶に由来するものだとすると、綺麗さっぱり消えてくれないのが厄介なところだ。源泉に思い至らないのに、何かに新しさを見出すという瞬間を失っている。単純に言って損な話だ。

更に言えば、私は本当に新しいものに出会った時にそれを認識できるだろうか。もしや、既に知っているものだけを良いものとして認識しているのではないか。良さと懐かしさの違いが分からなくなったら、過去を掘り返すことでしか快楽を感じられなくなったら、どうすれば良いのか。

あの二人に出会った時の喜びは至高のものだった。一方で、その時の感情について掘り下げると、何かを致命的に間違えたような気もする。

昔、好意を抱いた架空のキャラクターを並べ、その変遷と多様性について考えたことがあった。それは所有する本を見栄えのするように並べるような、意味のない行為であると認識してやっていたが、メリットもあったのではと今では思う。何か新しいものや代替の困難なものに出会った時にそれを認識できるに越したとはない。少なくとも、全ての過去を曖昧な既視感の中に押し込めている今の私にはできないことだ。

何時か懐かしさでどうしようもなくなってしまう前に、懐かしく思わなかったものを書き留めておくべきなのだろう。

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