荒野憧憬

個人的に好むフィクションだと度々、町は滅ぼされて荒野になっている。
この"荒野"という概念は私の中に根を張り、今も生き続けている。

それは概して、平坦な地形で、浅瀬になっており、人工とも自然とも付かない無機物が散発的に存在している。動植物はいない。空は"彼は誰"とも"誰そ彼"とも付かない微妙な色を帯びており、風が吹き続けている。

記憶を遡る限りでは、頭の中にあるこの荒野という概念は、魔法少女まどかマギカの影響が強く表れているように思う。既視聴者であれば、10話の例のシーンとの類似を察して頂けるかもしれない。確かに衝撃を受けた世代ではあるのだが、こうも長く印象が後を引くとなると、自分でも驚きがある。私の中で、滅ぼされた都市の後に残るのはそんな景色である、という観念は強く浸透している。集団の営みが失われた後にあるのは、無人のビル群でも、豊かな生態系でもなく、焼き尽くすような砂漠でもなく、荒野だ。風と水の音がありながら、生命を欠いた、寂しい場所だ。

より最近の作品で言えば、裏世界ピクニック冒頭のオフィーリア地点だとか、シメジシミュレーションに忍び込むモノリス群だとか、そういったものも幾らか"荒野"を想起させる。イラストレーションで言えば、ベクシンスキーの描く巨大物も類似的に好ましい。人ならざる場所、とでも言えるだろうか。それはイデオロギーが見出した自然美も、文明が作り出した機能美も持たず、ただ背景としての役割のみを持つ。人の有無は必ずしも問わないが、大局的な社会の営為があるなら、個人的にそれを荒野として認識することは難しくなる。

現実の自然は確かに美しく、圧倒され、呼び起こされる感情もあるが、それも、ここで観念として取り上げる"荒野"とは違うように思う。それは"自然"という語が示す通り、あくまで摂理に則ったものだ。それは常に正しく、人の居場所を考慮せずに作られ、在り続ける。逆説的に人の存在を強く主張する、といって伝わるものだろうか。人の対義としての自然。赤色を見詰めると浮かび上がる緑色。そんな風に、観察者の人としての在り様が強く感じられて、それが疎ましく思われることがある。

"荒野"は摂理を持たない情景だ。それ故に、その地に立つ個人に圧力を与えることをしない。それを観察する私にも、負荷を与えない。私的に都合よく形成された観念であるから、当然なのだが。

そういった荒野を歩きたいと思う。実際、より精神が不安定な時期に入ると、その地を歩くことを夢想する。夢想している日々があった。

その地に立って何をするでもない。本質的に、当てもなく歩く以外にすることは無い。必然、私は旅人になる。これまでの人生で自身を旅人だと思ったことなど一度もないが、荒野に立てば、否が応でもそうなるのだ。

そして旅人の役目に従い、社会の息吹を感じられないその場所を延々と歩いていると、偶に奇妙なものが見えてくる。それは孤独な精神がもたらす幻覚かもしれないし、実在するパラノーマルな現象なのかもしれない。どちらでも良い。人と出会うことは稀で、主観的現実が支配的であるから。

例えば、水底を泳ぐ、影の群れ。米粒程度の大きさの魚影のようだが、浅瀬であるにも関わらず、実体は見えない。恐る恐る手で触れても、水面の月のように掻き消えるだけだ。群れが意志を持っているかのように足元を動き回るのを、私はただ眺める。例えば、巨大なパイプ状のコンテナ。用途は分からないが、純粋な好奇心から、私は中に潜り込む。洞窟を求める本能的な感覚に突き動かされて。内部には有機的な形状の突起が無数に並んでいる。奇妙さを感じながら、私は反対側の出口までゆっくりと探り進める。例えば、建築力学上不可能と思われる細さの尖塔。縊れた円錐は、触れてしまえば倒れてしまいそうだ。そして先端から数十本のピアノ線のような繊維が、電線のように伸びている。私は目をこらして繊維の行き着く先を辿ろうとするが、薄明りに紛れて、どうしても見失ってしまう。

果てには、人と出会うこともあるのかもしれない。自分のような旅人が歩いていたら、それは何を考えているだろうか。どのように動いているだろうか。荒野を歩く他人に私はまだ出会ったことが無いので、想像も及ばないのだが。

旅人としてイメージを膨らませると、それは寂寞から離れて行くが、それでも、摂理と営為を欠いたままである限り、それは"荒野"であり、私にとって有価値な風景だ。摂理と営為を欠くが故に、夢想を受け入れる余地があるとも言える。

私は今後も荒野を見出し続け、想像の中で歩き続ける。時折、想像上の人物に荒野を歩かせたりもする。かつてそれが救いだった。何時までかは分からないが、これからも。

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