記録媒体

自分のインターネット上における人格は根無し草のようなものだ。仕事として何かを発信する必要もない、自己表現を多人数に見てもらう必要も無い。承認欲求はあるにはあるが、それを満たせる目算がある訳でなく、その状況に大きな不満を抱かないまま生きてきた。インターネットという公の場で文章を残すのは、自分が自分の為に書いた文章を気まぐれに放流することでしかなく、根本的なところで、他人に読んでもらうという思想が無い。

そういった考えの下でテキストエディタと向き合っている人間にとって、失いたくない読者は自分一人であり、その読者を失うことはとても恐ろしい。

何時か書いた数千字の文章があった。手元にtxtファイルがあると思ってインターネット上にあったバージョンを削除したが、そもそも手元に保存していなかったことに気付いたのがつい昨日だ。当時書いた大まかな内容は覚えているが、細部は、その時にしか書けなかった言葉は失われてしまった。同時に、過去の自分と未来の自分は互いを見失う。客観的に見ればそれはもう些末な出来事だが、冷えた毒を注ぎ込まれるかのような恐怖があった。

死に近づくようなことだと思う。過去の自分を忘れ、未来の自分に影響を与えることができなくなるというのは。元より、自分は他人に記憶してもらうことを生として認識していない。生を与えるのは、自分が自分を覚えていることだ。記憶があったことを認識し、それが何時か価値を持っていたことを認識する。そうやって生を認識する。

大局的に見て、記憶というのは生存に不要なものだ。生存に必要なのは持続する為のルーチンであり、危機を回避する為の反射応答であり、自壊に至らない為の回復能力だ。過去の自分について思考を巡らすこと自体は、生存に寄与しない。生存するだけであれば、原始生物に回帰すれば良い。快楽を最大化し、それが持続することを重んじれば良い。無益な過去は捨てれば良い。未来の自分に向けて言葉を与えようすることを諦めれば良い。

しかしその時、主観的実存はどうなるか。失われたと同義ではないか。過去に苛まれる無益な時間や、未来への漠然とした不安に押し潰される時間は確かに不快だが、それ以上に、長期的な連続性を失うことは恐ろしい。不快な時間を噛みしめながら実存を保つ方が余程、安寧に近い。

だから、寡少であろうと、下手であろうと、私は文章を書かなくてはならない。拙い言葉を吐き出して、吐瀉物を後になって見返せるように仕舞っておかなければならない。

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