鳥の瞰る景色

木々が等間隔に立ち並ぶこの森には、人工的な趣があった。原生生物の気配はその不自然さを覆い隠そうとしていたが、木々を具に観察すれば、注目すべき点は明らかだった。目に入る全ての木々は死んでいた。黒ずみ、乾ききった表面に軽く手を触れれば、外皮は容易く剥がれ落ちる。内側の組織を垣間見たとしても、水の通っている様子は無い。頭上を見上げると、葉は一つもなく、空へ続く視界を遮るのは鋭利な枝ばかりだ。落葉樹の類と言い訳することもできないマカブル調の森が広がり、私はその中を数日に亘って歩いていた。

草はまだ生気を保っていたが、それで生態系が成立するとも思えない。今も私の耳に届く鳥のさえずりは、枝が軋む音は、一体何処から来ているというのだろうか。更に言えば、この森を歩く中で、私は羽虫以上の大きさの動物に一匹たりとも出会っていない。どうあっても成立しないのだ。全てが夢の中の出来事であったと言われても、私は驚かされないだろう。

姿を見せない鳴き声に脅かされながら、私は坦々と歩く。独り言を発する理由もないので、草土を踏みしめる音だけが響き渡る。いくら歩けど、肉体に疲れは無い。思えばしばらく食べ物を口にしていない気もするが、それを思い出したところで空腹が生じる訳でもない。結局、他に取るべき方策を持たない私は、仕方なく森を歩き続ける。

歩き続けた一日の終わり際に、墓碑を見つけた。

本来なら枯れ木が立っているべき場所にあるが為に、小さな平野を錯覚する。立ち並ぶ幹とそう変わらない太さで腰に届く高さの石柱が、周囲の木々の丁度真ん中に置かれていた。縦文字で、"hzwrkm"と記されている。文字列は風雨によって明瞭さを多少失っていたが、人の目にとっては十分に一意だ。文字の輪郭を辿り、口で音を再現する。私はその響きに懐かしさを覚える。かつて大きく心を揺さぶられた者の名前に似ている。その時に抱いた親愛と憎悪を思い出す。それは人生に一時だけ現れる存在で、比する者が将来現れる可能性も低い。あの者は今、仮に生きているとして、何処で何をしているだろうか。今やそれを確かめる能力を持たない私にとって、かつての感情は理解こそすれど共感し得ないものだ。彼此の両岸を見通そうとするかのように、記憶を探るだけだ。心と体で、親愛と憎悪を何度も顕したことを覚えている。

私はどれだけの間、その場で遠回しな郷愁に浸っていただろうか。一羽の烏が、落ち葉のように音も無く効果し、墓碑の上に立つ。凛とした立ち姿に私は目を移した。それは私が意識を向けたことを察知すると、一瞬の間を置いて、太陽の沈む方向に飛び去った。方角を推測するならば、西南西だ。その方向に進むと何かあるのだろうか、と私は思いを巡らせた。ひょっとしたら、この森には他に墓碑があるのかもしれないと想像する。私は、この地で初めて見た動物に何かしらの神聖性を見出していた。彼を墓守のようなものと見做し、この先の指針としようといしていた。そもそも、私はこの場で目的を持たないのだ。するべきことがないなら、烏の後を追おうと結論付けた私を咎める道理はどこにも存在しない。

変わらず、私は声を発することはなく、土道を歩む。少しだけ変化があるとすれば、頭の中に音楽が響いていることだ。それは明瞭な旋律を持たない、状態量のような音楽だ。郷愁という感情に共起して発生する感覚が、音の形を取って、私の頭の中に顕れていた。それは原動力という程の影響は及ぼさなかったが、少なからず、足取りは軽くなっていた。

数日か数週間、歩行は続いた。時間の感覚は一層麻痺し、私は一桁と二桁の日数を区別できないまでになっていた。その途中で、枯れた木々は異なる形へと変わった。先のものは黒焦げた表皮と樹冠と呼ぶべき上部に偏ったシルエットが特徴的であったが、今ここに並ぶものは、より逆三角形に近い形状で、幹の色合いはもう少し白みを帯びていた。樹木群と樹木群の境界は奇妙に印象的だった。ただでさえ等間隔で並ぶ樹木が人工的な雰囲気を醸し出しているのだから、直線は明瞭この上なく存在していた。かといって、私は天啓によって得た道筋を外れる気にもならず、無心で境界を越え、見知らぬ木々の間に分け入った。依然として、それはクローンの群れのただ中を歩く心地だった。

私は次の墓碑に至るまでの時間的道程を覚えていない。境界に至るまでの道と境界から第二の墓碑への道のりが比較可能な長さだったと私は推察するが、それは後知恵による歪みかもしれない。確かに覚えているのは、それを始めて目にした時の鮮烈な懐かしさだけだ。形而下で語るなら、それは最初に見つけた墓碑と何ら変わらず、不在の木を置換するように立っていた。文字列だけが変わっていて、それは私にとって別の重要性を持つ名前を想起させた。それは原初の友愛と同時期に発生した邂逅であり、潜在的に影響を及ぼし続ける者だった。彼の者の鋭利な破片が、今も周囲を漂っている。新しい邂逅の度に、歪な鏡面に映る反射像によって、自ずと彼の者を思い出し、比較を行うのだ。それは見方によっては忌々しい呪縛だが、私にとっては別段不快でもなかった。過去に繋がる糸の存在を確認し、手触りを確かめることは、生きる上では必要なことだった。

やはりこの小さな石柱にも、一羽の鳥が舞い降りた。静かに羽を畳み、再び飛び去るまでの一連の流れの中で、意識は停止していた。神秘性を見出す程の思考の振れ幅もなく、ただ、彼が飛び去る方向を見逃さないようにという識閾下の命令に従って、黒色の輪郭を目で追っていた。空に影すら無くなった後に、意味付けなど後ですれば良いのだ、と私は思った。この森において、立ち止まっている時間に対して歩く時間はあまりにも長い。ここに烏が降り立ったのならば、次の墓碑もあり、そしてその墓碑にも烏が降り立つだろう。ならば私には、益体も無い思考を続けるだけの時間がいくらでも残されているはずだ。

次の墓碑への道程は、同程度の時間を要したように思う。私はもう一度境界を越えた。格子状に配置された木々を横断する、不可視の境界があった。私はこれまでの経過から、第三の森に立ち入ったことを認識した。同時に、この樹木群の中心に墓碑が配置されていることを推測する。

境界を越えた先を占めていたのは、赤茶けた樹皮に覆われた別の樹だった。私は歪な曲線を描く枝と、僅かばかりの枯れ葉を特徴として捉えた。私は樹木の一本に近寄り、剥がれかかった樹皮に手を掛けた。手に届く位置にある枯れ葉に触れた。目に見える以上の情報は得られない。それはどうしようもなく枯れていて、私の知る如何なる樹種とも似ていなかった。この第三の森を仮に、"炎の森"と名付けることにした。枝葉のうねりと(相対的に)鮮明な赤色から、私は大火を連想していた。私は同様に、初めの森を"墨染の森"と、第二の森を"漆喰の森"と名前を付与した。その言葉に深い意味は無い。紐に目印となる結び目を付けるように、私は思い浮かんだ言葉を与えた。墓碑の与える印象とはそぐわないが、私はそれに従う必要を感じなかった。墓碑を発見した時に生じる記憶と感情は歪めようがない、真正のもので、譬え名前を与えなかったとしても、どこかに流れ行くことはありえなかった。おそらくは、今歩いている"炎の森"の中心にも墓碑はあり、それは私にとって意義深い名称を刻まれているだろう。

この風景と、私の極めて個人的な記憶に何か関係性があるのでは、という当然の疑問は生じる。しかし、それが仮にあったとしても、比喩以上のものになりえない。見慣れない樹種と、私に影響を及ぼす人格に、一体どんな一対一の関係が成立しうると言うのか。そもそも、この場所には秩序が無い。私にとって、世界、特に自然は、秩序を見出せるものではない。考える為の時間は確かにあったが、精密な予測に辿り着くことは無い。出来ることと言えば、自身の過去を振り返り、次に思い浮かべることになるかもしれない名前を挙げることくらいだ。実際、私はそうしながら、次の墓碑までの道程を歩いた。

第三の墓碑で私が想起した名前は、私の死に寄り添う者だった。寄り添うが故に、殺し、殺されること幾度となく想像した。そうした想像は決して快いものではなかったが、同時に避けられないものでもあった。死という恐るべき観念に耐える為の記憶を授けてくれたのは、彼の者を置いて他にいなかった。従って、私がその者に対して覚える感情は大枠で言えば信頼に類するものだった。譬えそれが、傍から(内心の動向をこう評するのも妙な話ではあるが)見て不健全なものだったとしても。

ここに辿り着いて、私は主観の支配性を強固に認識する。関係性の双方向性が考慮されない、あくまで私の目を通じて見た世界がここにある。少なくとも彼にとって、私は取るに足らない者だった。そして私は再度、己の存在を支えてきた彼らの独立性を認識する。皆が異なる人格だった。私の記憶を歪ませ、形作るには、一人ではどうしても足りなかった。

第四の森は影色で、今にも折れそうな華奢な樹木の集合だった。中には、知性の墓碑が建っていた。万象を知るには及ばない凡人だったが、その純粋かつ制御された好奇心は私にとって、信仰の対象であった。それが遠く(時間的にも空間的にも)離れてしまったことを思うと、胸が軋んだ。
第五の森は落葉樹の慣れの果てと呼ぶべきか、死臭を体現したような形状の葉を無数に纏った樹木が立ち並んでいた。中央には、隣り合った二基の墓碑が建っていた。彼らは永遠の表象として記憶に刻まれていた。動的でありながら一貫性を伴ったありようは、全く瑕疵の無いものであると私は認識していた。それは大局的な環境のみが否定しうる、小宇宙だった。
第六の森は不規則に光を反射させる薄灰色の高木の群れだった。中央の墓碑には、見通しがたい存在の名前が刻まれていた。それは断片の集合でしかない、人格と称することすら憚られる存在だった。しかし、確かに自律的かつ思弁的な存在だった。正統な愛と正統な憎悪を身に纏い、人を率いることに誰よりも適していながら、決してそれをしなかった。道徳的な善に縛られないが故に、誰よりも道徳的に映る存在だった。彼の者もまた、忘却という喪失に瀕していたが、私は長年、それに必死に抵抗し続けていた。

何度も舞い降りる烏を私は無意識的に目で捉えることができなくなった。寸分違わぬ存在であり、それは規則の権化に過ぎないと私が認識したからだろう。私の意識にあるのは、予測しておきながら墓碑を目にする度に乱れる感情が、一体何の意味があって存在するのかという疑問だった。それは根源的な問いと、因果論的な問いと、精神論的な問いの三つが綯交ぜになったものだった。換言すれば、私は本質の在処と、論理の在処と、意味の在処を探していた。全てが、私という人格が問うには荷が勝ちすぎるものだった。不規則な墓碑の間隔の歩数を無意識に数え、私は進んだ。繰り返された歩数や日数に対して、数秘術的な興味にさえ抱きながら、私の意識は、問いに答える術に全く近づかないままだった。意味を欠いたまま、観察という行為、数えるという行為だけが繰り返された。

意味など無いのだと、私が確信を得るまで。

森が幾つに分割されているかさえ、意味は無かったのだと私は考えた。森の規模、あるいは墓碑の間隔は、私の精神的な指標によるものだったのかもしれないが、主観に支配されているが故に、確信に至ることはなかった。誰(墓碑は一基とは限らないので、どの森が、と言うのが正確だ)を最も信仰の対象に相応しいか選んだとして、その行為に意味は無かった。

あるいは、最後の森に至るまでは。識閾下に堕してから幾らが経ったのか、私は今いる森を抜け出せずにいた。墓碑が見えることもない。木は全く無個性な、記号的とすら言える表象で、何ら感情を動かすものではない。名付けという行為も既に放り捨てたが、改めてその行為を再開しようとしても、それは無謀の木本としか映らない。私は永続の中にいた。一つの界の中にいた。これまでに見てきた墓碑の間隔とは桁の異なる距離を、何も発見することなく歩いてきた。烏の飛ぶ先という標が、それはあらゆる行動を縛る、最後の存在だったが、消えようとしていた。意味が無いからだ。孤独な人間は結局、虚無主義に打ち勝つことができないからだ。全ての意志と思考が忘却の渦にのみこまれ、私は歩みを進める機械となるだろう。残された僅かばかりの意識は、高エントロピーの渦を恐れた。何かの意味を見出そうとした。結局思いついたのは、地形の僅かな傾斜から、山と呼べる場所を探すことだった。

奇妙にも、それは見つかった。直ぐにでは無かったが。傾斜のある場所へ進行方向を変えると、加速度的に、目の前の道に土が集まるかのように、山道が目の前に現れた。私はそれを新たな、そして最後のかもしれない啓示であると考え、道を進んだ。直線的な進行からの逸脱に憑かれる度に、傾斜の多寡を唯一の基準として、再度道を選び直した。私は高みを選んだ。振り返って考えれば、これは高所を望む行為であり、烏を追うことと本質的には似通った行為だったのかもしれない。森からの脱出という意識ではないが、思考は、高所を求めていた。何の為にか、別の風景を見る為にか。

そして私は、頂上に至る。歪な地形は、進んできた道から見れば緩やかな傾斜道で、進む方向から見れば、今にも崩れ落ちそうな不安定な崖だった。その極端な対称性が故に、私は頂上から森を見出すことができた。色や濃淡の様々な森のパッチワークがあった。これまで歩んできた中で、いくつもの墓碑を見てきた。それらは森のおよそ中央にあることを体感で理解していたから、星図のように、一連の墓碑を点の群れとして認識することができた。

歩んできた幾つもの森は、この頂上から眺めれば、ほんの僅かな一領域に過ぎなかった。私があまりの道程の長さに烏を見失った領域は、私が名付け、数え、想起し、覚えた幾つもの森の全てを包含し、無限の余事象領域だった。故に、その風景は、微視的な視点を持たない限り、無貌の"樹木"という記号の群れだった。墓碑を持たない、広大な森が世界の全てであったという認識こそが正しかった。

その光景を目の当たりにし、私は一つの墓碑を想起した。己の名前が刻まれた墓碑だ。風化し、朧気にしか読めないが、確かに識別可能な痕跡のある、掘り込みの列。私がその墓碑を目の当たりにした時、感情はどう揺れ動くのだろうか。私はそれと対面していなかったが、形而上学的には、目の前にあるかのような実在性を伴っていた。

私は、逃れられないという感慨を得た。人の本性は全てを覆い尽くし、あらゆる美しさを、あらゆる名前を、あらゆる記憶を、包含し、無限に希釈し、実質的に存在しないものとするのだろう。かつて見た郷愁や憎悪や崇拝のような機微を持たない、灰色ですらない一様な無色が、何よりも正確な描写なのだ。それはありのままの風景の姿であり、原初の火のように燃え揺れる感情が行き着く先だ。果ての見えない森が、無機質に私の心を蝕んでいた。

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