歌枕見て参れ②
今回はもう少し歴史として、実方が陸奥守に選ばれた理由を考えてみました。
済時と宮中
ちょうどこの頃、藤原実方の従妹娍子(せいし/すけこ)は東宮居貞(おきさだ)親王(のちの三条天皇)の第一皇子敦明親王を産みました。まだ、一条天皇に皇子がいなかったので、もし、一条天皇がそのまま崩御していたら、この皇子が次の東宮になる可能性があったのです。
小一条流と呼ばれる家の当主藤原済時は、娍子の父で、実方の養父。大臣ではなかったが、有能な公卿であったようなのです。
もし、居貞親王が天皇になり、済時の孫が東宮になれば、中関白家から、権力が移行してしまう。そこで、ある勢力が、小一条流と呼ばれる一族の勢力を削るため、実方を陸奥に送ったのではないか。
しかし、この説は、ちょっと厳しいところが。
中将の実方を陸奥の国司として、遠ざけて、どれほど効果があったのか。
また、大鏡の話でも有名ですが、藤原済時は、藤原道隆、藤原朝光と頻繁に酒を酌み交わす仲だったのです。
だから、中関白家の当主で関白である道隆は、済時を追い詰めより、利用するのではないでしょうか。
済時と陸奥
実は小一条流は陸奥に縁が多々あります。(2021年9月14日追記)
尊卑分脈によれば、済時自身、その子を陸奥の武士にしているようなのです。
また、実方と陸奥についていった源重之は陸奥で育った歌人です。
父は清和天皇の子、貞元親王の子源兼信、後に伯父源兼忠の養子になりました。歌人として都では評判だったようです。筑紫に下る際は、済時に名簿を賜っています。
娍子の腹違いの兄為任は、済時と兼忠(あるいは兼忠の子能正)の女との間に生まれました。つまり、重之は為任と親戚になります。
貞元親王は東国で亡くなった伝説があり、その子孫も東国と縁がありました。
実方が陸奥の国司に選ばれたのは、済時にとってとても大きな利益になることだったのではないでしょか。
しかし、済時は実方が発つ前に疫病の大流行で亡くなってしまい、目的があったとしたら、わからないままになってしまいました。
実方が陸奥に行ったことで
実方が陸奥国司になった理由のもう一つは朝廷にとっての思惑だったということ。
平将門の乱が鎮圧されたあとも、東国は荒れたままでした。
今昔物語によると、藤原実方が赴任したことで、騒乱が鎮まったと言われています。(巻25-5 平維茂罸藤原諸任語)
(ちなみに、平維茂は済時の子維叙とともに、平貞盛の養子になったと言われています)
青森の廣田神社には、実方が陸奥を巡邏し、平定したという伝承が。
東北には実方が歌枕を巡った伝説も残っていますが、歌枕はいわゆる景勝地で、人が行き交うところ。実のところは各地を見回っていたとも考えられています。
このようにいろいろ考えられるのですが、結局のところわからないんですよね。
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