大量のことばをインプットしてアウトプットしたい


人生のなかで、大量のことばをインプットして、大量のことばをアウトプットしたい。

ということばが、急に自分のなかで浮かんで、ツイートした。

私は他人よりもnoteの書き方が乱雑な自覚はあるし、それと同時に2年前後で何百記事も書き溜めたのだから、他人より少し「書くこと」に抵抗がない側の人間だと思う。

最近は、ジャーナリング(書く瞑想)といわれるように、ことばを書くことの大切さが世の中で認識されてきている。

私は書くのがたぶん、とても好きなんだと思う。

最初からすごくそうではなかった。学生時代に日記がちゃんと習慣化されたことはほとんどない。

でも、ジャーナリングを通してスッキリしたり、まとまらないアイデアを発散させたら、書いているうちに光るものを見つけたり、そういった体験はとても嬉しいもので、その感覚を求めてまたノートを広げる。

私たちは書くことで、なにかを手放し、
書くことで、なにかを得られるのだと思う。

私のこれまでの人生はたくさんの恩師と仲間に支えられていて、そこにはいろんなことばがあった。

忘れられないことばは、自分をも変えるし、時が経っても今の自分を突き動かしたりする。
自分が発することばを通して、誰かを勇気づけられたりしたときの高揚感と幸福感も、他には代え難い。


ことばに関して、忘れられないことばがある。

高校時代の恩師にもらったことば。

「なこちゃんに書けないものは、他の人も書けないわよ」

大学の推薦入試前日、論文対策で過去問を解き、先生に添削をお願いした時に、そういってあまり添削をしてくれなかったのだ。

論文のテーマがすごく難しかった場合でも、私が上手く書けなかったら他の学生も書けてないから大丈夫。自信を持って書きたいことを書いて、というメッセージだった。

私はそのときとても嬉しかったし、今でも思い出すとそんな褒め言葉よく出てくるなと思うくらいありがたいことばだと思う。

なんせ高校入試の小論文は、250点満点中159点とかで、内申点が高かったから合格できたという感じだったので、自分の文章に自信はなかったのである。

でも先生にそう言ってもらって、自分の手をもっと信じてもいいかもと思った。

「私だから私の文章を書ける」
と、今でも青い炎のような、自分の中に秘めた自信となって私の手を突き動かしているのかもしれない。


よく「自分のことば」というが、自分のオリジナルのことばというのは、流行語大賞を取るような造語を誕生させた高校生くらいしか作れないんじゃないかも思う。

世の中に新しいことばを残すのは、難しい。

所詮、ことばはコピーとコピーの連続である。
だれかのことばを借りることの歴史が、日本語、ないし言語なんだと思う。

しかし、自分のオリジナルのことばはつくれなくても、自分なりのことばの組み合わせなら無限大である。

素敵なことばとすてきな言葉を組み合わせて、新しい素敵なことばをつくって、誰かに届けたい。

だから私は、人生のなかで大量のことばをインプットして、大量のことばをアウトプットしたい。

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