愛猫・えしぇ蔵の一回忌に寄せて

全身性エリテマトーデス(SLE)を発症してから3年の間に、私は2回のどん底を経験した。1回目は病状悪化に伴う解雇。2回目はパワハラに端を発する解雇。この間に離婚と、一度は再婚を約束した恋人との別れも経験した。もちろん病気自体に起因する心身のつらさもあったが、それらを乗り越えた私は、これ以上落ちることはないと思っていた。でも、もっと深い底があったのだ。

2021年は、たぶん、私の人生で最も過酷な1年だった。

2016年の春先に国の指定難病であるSLEを発症し、2017年の秋口、病状の悪化が原因で職責が果たせなくなったことを理由に離職(会社都合)した。1年余りを、預金残高が減っていくのに怯えながら、療養に専念して過ごした。2018年の夏から秋にかけて再就職活動をし、何十社もの会社にレジュメを送り、ある米系コンサルティングファームに契約社員としてもぐり込み、2019年に正社員かつマネージャとして登用された。しかし上司であるディレクタに違法行為を強要され、拒否したことがきっかけで、週末に読書感想文を書かされるなどのワ○ミ顔負けの苛烈なパワハラを受けた。それを察した別の在米の役員(言っておくが私自身ではない)が内部通報をし、私と日本法人の経営者らがAPACのコンプライアンスオフィサーによる調査を受け、その結果「パワハラの事実なし」と結論づけられ、私はすべてのジョブを剥がされ、日本代表から直々に「ここにあなたの仕事はない」と退職勧奨を受けた。3か月という短い猶予期間のなかで再び転職活動をし、某再生ファンド下にある、埼玉の田舎に本社を置くメーカーに何とか転職したものの、会社は新型コロナウイルスの影響により債務超過に陥り、人員整理が行われ、私もその対象となった。その通知により私の2021年は幕を開けたともいえる。でも、人生3度目の解雇よりもっと最悪だったのは、その年の1月25日の愛猫・えしぇ蔵(2016年2月20日生)の突然死だった。

えしぇ蔵は名ワインと名高い「エシェゾー(Echezeaux)」から名付けた。名前負けしない、真っ黒の毛並みと緑の目が美しいノルウェージャン・フォレスト・キャットだった。それでいて性格は甘えん坊で、私にも先住猫のコナン(2010年3月30日生)にもよく懐いた。毎晩、私の腕を枕にして眠り、私が起き上がろうとすると必死にしがみついてきた。目覚めると大抵、最初に目に入るのがえしぇ蔵のまんまるの瞳だった。私が目を覚ますのを待ち構えているのだ。そして「母さんが起きた!起きた!」と言わんばかりに全身で喜びを表すのだった。

母さんを見ても嬉しい。お兄ちゃん(コナン)を見ても嬉しい。お空を見ても、お外の鳥さんを見ても、お花を見ても嬉しい。母さんのお友達が来ても、火災報知器を検査する人が来ても嬉しい。えしぇ蔵は何を見ても、まるで初めて目にしたかのように喜びを示す子だった。

2020年、周りに知り合いもいない埼玉の会社に入社した途端、コロナ禍のせいで在宅勤務と、土日に加えて週に1日の休業期間に突入してしまった私を慰めてくれたのは猫たちだった。特にえしぇ蔵は、私が仕事中もデスクから離れなかった。マウスを動かす私の手首の上の、えしぇ蔵の顎の温かさを、今でもありありと思い出すことができる。

2020年の年末、私はひどく体調を崩し、仕事と、最低限の家事と、猫たちの世話をするのが精一杯だった。高いところが大好きだったえしぇ蔵へのクリスマスプレゼントとして買った、大きなキャットタワーを箱から出す体力も気力もなく、ようやく組み立てたのは翌年の1月も半ばのころだった。

2021年1月25日は月曜日で、私は朝起きて仕事の準備で忙しくしていた。7時45分頃、身繕いを終え、ふとソファの下に後ろ足を投げ出して寝ているえしぇ蔵を見つけた。私が足を近づけたら、いつものように飛びついてくるだろう。そう期待したがえしぇ蔵は動かなかった。抱き寄せると、えしぇ蔵の目は大きく見開かれており、片方の目から一粒の涙が溢れた。体はまだ温かく柔らかかったが、魂はもうそこにはなかった。

えしぇ蔵の名前を何度も呼び、体を揺すったが、えしぇ蔵はぐにゃぐにゃと動くだけだった。えしぇ蔵の兄弟猫を同じブリーダーから譲り受けた親友に半狂乱で電話をかけ「えしぇ蔵が死んじゃったみたい」と言って号泣した。親友は驚いていたが、とにかくまず病院には連れて行けと言ってくれた。上司に、オンラインの朝礼には出席できない旨をメールで伝え、バスタオルを敷いたキャリーバッグにえしぇ蔵を入れ、かりつけの病院が開く9時に合わせて連れて行った。

獣医さんの見立てでは、口元もお尻も綺麗なので、急性心不全ではないかとのことだった。病理解剖をしてもよいが、それ以上のことはわからないかもしれないと言われ、えしぇ蔵の体にメスを入れるのは忍びなく、私はペットの火葬をしてくれる霊園のパンフレットを貰い、足どり重くえしぇ蔵を家に連れて帰った。

帰宅した私は、霊園に火葬の予約を入れるために電話をしたが、その日の夕方に空きがあると言われても、何も言うことができなかった。霊園の担当の方が察してくれて「今日1日は一緒に過ごされて、お別れをされてからにしてはいかがですか」と言ってくれた。

キャリーケースに入れられた形のまま死後硬直をしていくえしぇを撫でながら、最後に見た生きているえしえ蔵の姿を、まったく思い出せないことがつらくて泣いた。朝忙しくて、体が怠くて、まとわりついて来たえしぇ蔵を振り払ったような気がする。えしぇ蔵は母さんに邪険にされて悲しい気持ちのままソファの下で力尽きたのではないか。そもそもそれまでの1週間、私は体調が悪すぎてえしぇ蔵をほとんど構ってやれなかった。新しいキャットタワーも、もっと早く組み立ててやればよかったのに、えしぇ蔵はたった1週間しか遊べないまま旅立ってしまった。最後にあの子を撮った写真も、その死の1週間も前のものだった。あと1週間の命だとわかっていたら。いや、私がしっかりしていれば、えしぇ蔵の異変を察知できていたかもしれない。いや、もしかしたら、えしぇ蔵は病に苦しむ私の重荷を軽くするために自らの意思で旅立ってしまったのではないか。

難病を抱えてひとりぼっちになった私にとって猫たちは、つねに支えであり、生きる理由であり、そしてほんの少し重荷だった。それを優しいえしぇ蔵が察したのなら。そう考えると気が狂いそうだった。SLEの診断がついていたのに、なぜコナンに加えてえしぇ蔵を引き取ってしまったのだろう?もっと構ってやれる人に引き取られていれば、今もあの子は元気に生きていたのかもしれなかったのに。それは今でも思っている。

夜、東京から埼玉まで、えしぇ蔵の兄弟猫と暮らす親友が、お供え用のお花を持って駆けつけてくれた。えしぇ蔵をしばらく預かってくれたこともあった彼女は、えしぇ蔵と私のために涙を流してくれた。そのお花は結果的にえしぇ蔵と一緒に煙となって天に昇っていくことになった。

えしぇ蔵の亡骸をベッドに置き、ほとんど一睡もせずに最後の夜を過ごした。眠りに落ちそうになると、えしぇ蔵がベッドの掛布団をふぁさ、ふぁさ、と踏みしめながら歩み寄ってくる気配がして「あ、やっぱり生きていたんだ」と思い目を覚まし、絶望する。それはその後何か月も続いた。

どんなに別れがたくても、えしぇの遺体をそのままにしておくわけにはいかなかった。私は翌朝、上司にペットの火葬のために早退する旨を伝え、その後は機械的に仕事をし、時間が来たらタクシーを呼び霊園に向かった。

えしぇ蔵は、ふかふかの毛皮と美しい瞳を失い、真っ白な骨になってもなお愛らしかった。肩甲骨の骨がまるで天使の羽のようだったのが目に焼き付いている。遺骨ペンダントに入れるための骨を少し選り分けた後、残りのお骨を骨壷に入れてもらい、それを抱いてまたタクシーに乗った。運転手さんが「犬ですか?猫ですか?」と話しかけてきた。「猫です」と言うと「私も去年猫を亡くしましてね」と話してくれた。「今はね、そんな気持ちにならないかもしれないけれど、写真をね、たくさん飾るといいですよ」と運転手さんは言った。今、私の部屋にはえしぇ蔵(とコナン)の写真がたくさん飾られている。

えしぇ蔵を喪い、ダメージを受けたのは私だけではなかった。えしぇ蔵と5年弱を共に過ごしたコナンは、えしぇ蔵の死以来、えしぇ蔵を霊園に連れて行く直前にえしぇ蔵の鼻に鼻でキスをした(お別れをしたのだと思う)以外は、ずっとクローゼットにこもり、食事もトイレもしなかった。コナンは6年間ひとりっ子だったのと、警戒心の強い性格のため、えしぇ蔵が遊びに誘っても基本的には無視していた。かと言って仲が悪いわけではなく、つかず離れずの距離で寝そべったり、お互いにそっと鼻と鼻をくっつけているときもあった。コナンはコナンなりにえしぇ蔵の喪失に衝撃を受けているのがわかった。

えしぇ蔵が亡くなった月曜日から金曜日までを心を殺して仕事をすることでやり過ごし迎えた2021年1月30日の土曜日。コナンは相変わらずクローゼットにこもっていた。「コナン。コナンが出てきてくれなければ、私は死んでしまうよ」。その言葉が意図せずして口から出た。すると、しばらくしてコナンがクローゼットがら出てきて、お皿に入っていたフードをかり、かりと食べたのだった。コナン、やっぱり人間の言葉を理解していたんだね。ああ、私はまたこの子に頼ってしまう。先に旅立つのは、コナンだと思っていた。そのときにはまだ若いえしぇ蔵が、底抜けの明るさと、掛け値なしの愛情で私を支えてくれるだろうと。でもあの子は、現実にはあの子を、看病してやることも、息を引き取る瞬間に「愛している」と伝えてやることもなく、5歳の誕生日を迎える直前にひとりで逝かせてしまった。

正式に解雇が決まり、3か月の有給休暇が与えられたものの、私は転職活動をする気力がなかった。社長をしている友人が岡山の会社に誘ってくれた。コナンの体重は4kgから3.2kgまで減った。コナンはよくキャットタワーを登ったり降りたりしては「ちびすけ、どこに隠れているの?」と言うかのように鳴いた。生きて、コナンを養っていくには選択肢はひとつしかないように思えた。

岡山に転居し、当地の大学病院に転院してからの生活も楽とはいえなかった。7月にはSLEの典型的な合併症である抗リン脂質抗体症候群の疑いで入院をした。結果は陰性だったが、脳が虚血していることは確かだった。飲む薬が増えた。ステロイドパルス療法に備えた全身の精密検査で緑内障の疑いありとされ、再検査も受けた。元々あった卵巣の嚢腫は、一番長いところで85mmにまで膨らんでいた。不眠や動悸にも悩まされた。しかし、それまで縁もゆかりもなかった土地で、慣れない仕事をしながらの闘病はつらかった。体調を崩しがちな私に罵声を浴びせる同僚もいた。でも、えしぇ蔵が死んだことに比べればましだった。ちょうどコンサル時代にパワハラを受けていたころから付き合い始めた恋人とは去年、国境を超えた遠距離恋愛になったが、悲しくはなかった。だって彼はまだ生きているのだから。

えしぇ蔵はこの世を去るとき、私の心に何をもってしても塞ぐことはできない大きな穴を開けたが、同時にすべての恨みも引き連れて行ってくれた。病気への恨み、私を裏切った元恋人や元上司への恨みもすべて。何かや誰かを恨む時間があったなら、代わりに頭のなかをあの子の存在でいっぱいにしてやればよかったのだ。「大好き」だけでできていたあの子の存在で。

いろいろな事情で岡山の会社を辞め、えしぇ蔵の死から1年後の今日、私は東京の自宅でこれを書いている。知人のリファラルで入社した会社で残業もなく、自分に合った仕事ができており、体調は相変わらずだが悪化もしておらず、コナンも元気だ。今でもときどき、えしぇ蔵を思い出して涙が出ることはあるけれど、1年前には想像もできなかったほど穏やかな気持ちで今日を迎えることができた。

私は子供を持つことができなかったが、えしぇ蔵もコナンも私にとっては子供だ。そして、家族以外の人間関係を持つ人間の子供と違って、猫たちには飼い主しかいない。そのせいで飼い主と猫の間には、人間の親子とは違う種類の、濃密な関係が生まれるのだと思う。

えしぇ蔵とコナンを愛している。えしぇ蔵の視線が恋しくて堪らない。願わくば、この子たちのすべての記憶が、私が最後の呼吸をする瞬間まで、私のなかに残りますように。


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