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猜疑心

こんばんクロワッサン

土日は北関東の古民家でゆっくり過ごした。
本当にゆっくり過ごしたか?
集合して、荷物を置いて市場つき食堂でお昼を食べて、買い出ししてお風呂に入って、囲炉裏に火を起こして駄弁って明け方までカードゲームをして。起きてご飯食べて片付けて陶芸やって。
これってゆったりなのか?わからなくなってきた。
確実に普段やっていることではないけど、全部楽しかったけど、それで脳のなんらかが活性化してたりするのかもしれないけど、スケジュール詰め詰めで何か力みを感じていたり疲労を感じていたりするのは、これはリフレッシュになっているのだろうか。あ~もうどんどんわからなくなってきた。

これたぶん人疲れだ。
長い付き合いの友人たちなんだけれど。
もともと人付き合いが得意な方じゃない。他者の反応、一挙手一投足がめちゃくちゃ色々気になってしまって、考えてしまって、ひどく疲れてしまう。だいたい4、5年以上を同じコミュニティで過ごしてようやく、普通に安心して話せるようになる。今回の同行者とは足かけ10年以上の付き合いで、だからこそ泊りがけの遊びなんかもできるわけだけれど、ふとした瞬間の会話の齟齬(の兆し)や段取りに対する見解の不一致、自分の至らない点に、あるいは完全に会話が盛り上がった瞬間にさえ、不安のさざ波が押し寄せることがある。
人見知りするわけではないのと出で立ちや喋り方は堂々としているらしいので、あまり「苦手」とは思われないらしい。「苦手」なのではなく興味がなかったり、避けていたりするように思われるみたいだ。いやうまく入れないし乗れないしかわせないから結果的に逃げ腰にはなってるのか…。

リフレッシュで古民家で囲炉裏を囲みドリップコーヒーを飲み陶芸をし、という日の日記で書こうと思えることが「人疲れ」なのだからどうしようもないなと思う。とりあえず、ソロキャンないしその手のアクティビティをしたいなという思いが増した。


最近つつがなく過ごしてはいるけれど、自分の内面や感情に向き合う時間が無くなっている気がする。そのこと自体になんだか不安がある。
前は、日常のちょっとした疲労、それこそ(時には自分の外で行われている)コミュニケーションに疲れた時なんかには、どうして自分はこんな風なんだろう、周りはあんな風にあるんだろうと考えだして、自分の存在について深追いして考えていることがよくあった。
基本的にネガティブオリエンティッドだったし、だから苦しかったし、良いことではなかったのかもしれない。でも苦しみに向き合っていないというのは、それはそれで何か怖いもののように思えてしまう。習い性でそう感じてしまうだけなのか、なにかなけなしの青さと感性とかいうようなものが失われていっているように感じているのか、果たして。

みんな自分にとって大切なものとか好きなことっていつ理解するんだ。いつそれが自分のものだって確信しているんだ。


おやすみなさい。

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