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2024年1月1日 能登半島地震を経験して感じたこと。

2024年1月1日。

石川県の能登島にある祖母の家に親戚集まって、お正月料理を食べて、ひと段落して、初詣にでも行こうか〜。と話しをしていた時に1回目の地震。
震度4。

以前も能登半島では震度5の地震があり、私はその時も偶然祖母の家にいた。
結構揺れたね〜。と言いながらテレビをつけて見ていたら、携帯の緊急地震速報が鳴り響き、その後16時10分に2回目の揺れ。
震度6強。

すぐに外に出ようと皆で玄関を出た途端、ドンっと大きな揺れが来て、玄関前の階段の所で皆で動けなくなった。体感2分くらい揺れてた。
ガクンッと地面はズレて階段が割れ、道路にもヒビ、家の柱にもヒビが入る。車も揺れていて、家の瓦が落ちてきた。おばあちゃんが泣きながら怖い、怖いと叫ぶ姿、お母さんが必死に大丈夫、大丈夫、って言いながらおばあちゃんとおじいちゃんを守ってた姿が頭から離れない。

地震が落ち着いて、津波が来るから高台に逃げよう、と必死に山に向かって走る。途中で従兄弟が車を出してくれて車で高台まで避難。道路の至る所にヒビ。農道に登るが、道路にはヒビが入り、そこからいつ道路が崩れるかも、土砂崩れが起きるかも、津波が来るかもわからない。おばあちゃんちは島なので、海に囲まれている。家から5分くらいの場所に綺麗な海が広がっている、普段訪れる時はとても大好きな街。

4時間程、山の上で避難。ひとまず避難して、自然と涙が出た。
でも自分が泣いているわけにもいかず、堪えておばあちゃんに、大丈夫。大丈夫。と声をかける。テレビは津波警報、逃げてください。とアナウンサーの方が必死に呼びかける。私は携帯で地震が起きた時にできることを必死に調べた。

しばらくして、避難所に向かう指示が出た。町会長のような人が街中を周り、点呼をとりながら避難所の場所を伝えて渡る。その人は、崩れた家で取り残されている人達の救出作業に向かった。自分も死ぬかもしれないこんな状況で、助けに行ける姿に尊敬の気持ちしか出なかった。車でぐちゃぐちゃな道路を渡り、避難所に着いたのが20時頃。
その日は朝までずっと揺れていて、いつまた大きな揺れが来るかもわからず、一睡もできなかった。揺れていないのに、ずっと揺れている感覚があった。

人生で初めて、死ぬかもしれない。って思った。

避難所に着くと、多くの人が既に避難していた。町の学習センター。
入るとすぐに係員の指示があり、椅子と水、灯油の補給作業に参加した。
赤ちゃんがいる家族や、体に障害のあるお年寄りなどは部屋と布団が用意されたが、その他の人はお年寄りでさえ、椅子で座って一晩過ごすことになった。
その日配られたのは何人かに1本の2Lのアクエリアス、お茶のみ。
水は期限切れ。非常食も期限切れ。毛布も全員に渡らない。
能登半島は近年地震が多かったから避難場所は皆知っていたけど、避難所に行った後の対策が全く行われていなかった。断水でトイレの衛生面も心配であった。

翌日の朝、津波警報が解除されたので皆で生活するために動き出した。
水がとにかくないので、消火栓の水を出して沸騰させて豚汁のようなものでも作ろう。と、水を運ぶ人、火を起こす人、避難所の近くの家の方達は食材を持ち寄り、分担して作ることになった。近くに柔道場が幸いなことにあったので、そこからマットを持ってきて、寝るところを確保など、できることをした。
私達は家族総出で手伝いをした。前日の夜から何も食べておらず、一睡もしていないのでクタクタだったけど、今の私に出来ることは動くことしかない。と思って、とにかく動いた。今思えば、もう少し出来たこともあったな。と思うこともあるけど、それはこれからに繋げていければいいなと思っている。

薪を割って火おこし
水を運ぶ
持ってきてくださった食材達
火おこし

次の日、津波注意報が消えてから貴重品だけ取りにお婆ちゃん家に戻った。中がぐちゃぐちゃだった。家の半分は傾いて、もう住めない。
お婆ちゃん家の地域の他の家は、多くが潰れてしまってた。本当にゾッとした。
避難した近くでは津波が来た後があった。

崩れた家


崩れた家
マンホールが飛び出している
割れた道路

1月2日、私と両親、いとこはそれぞれ実家がある金沢市に一度戻った。
金沢市は被害がそこまで大きくないので、水、水を入れるタンク、保存食を買って1週間ほど、能登島へ届けに行った。知り合いで車中泊している人もいて、まずは自分たちの身の回りの知り合いが無事になるまで、能登島に行き続けた。
3日、4日ぐらいから徐々に電気が復旧し始めた。


親戚は皆、幸いな事に無事を確認できたけど、今回の行動や判断が、一つでも、一歩でも、一秒でも、遅れてたら。と考えると、本当に怖い。

日を追う事に今回の地震による被害が明らかになっていっていて、2週間経った今でも、断水していて、避難所生活する人が多く、夢なのか現実なのか、この状況を把握できてない。ニュースを見たり、他で震災を経験された人の話を聞くだけで、勝手に涙が出てきてしまう。
未だ安心できる状況ではないし、復興にはまだまだこれから。

自然災害はいつ自分の身に起こるかわかりません。どうか、災害対策、今一度見直して下さい。津波の場所、避難場所、災害セット用意したり。寄付、募金も大事ですが、まずは自分自身を守れる状況を作って下さい。

起きてしまってからでは本当に遅いので、今後一人でも大きな被害が出ないように。

2024年1月時点での現状と必要なもの、私達ができることを自分なりにまとめてみました。

【必要なもの】*以下の2点が特に必要かなと思います。

現状:水道の復帰には、輪島市、珠洲市では2月、3月頃、遅い地域では4月頃。
まだまだ水の確保が必要です。

現状:3月末までに、応急仮設住宅、賃貸型応急住宅、公営住宅をあわせて約1万3千戸が提供される予定。

【私たちができること】
物資を届ける
水・携帯トイレ・毛布(雪が降り、寒いので。)等。
*保存食については、お年寄りが多いので買うものを考えた方がいいことと、かなり寄付されており、これからは在庫処理が必要になってくると思うので、よく考えて送る。
募金する
→ 仮住宅の確保や、その他、資金が必要なものに充てることができる。
ボランティアに行く。
→ 徐々に一般のボランティアへの呼びかけを増加していく。と知事より。
旅行にいく。
→ 今回被害が大きいのは、石川県の上半分、能登半島。下半分の金沢市や加賀エリアは特に被害が大きくないので、ぜひ旅行にきてほしい。とのことです。
加賀温泉は、被害がないにも関わらず、観光客が来なく困っているそうです。
最近、有名な観光地、金沢も被害が少なく全然観光に来れるので、ぜひお越しください。

上半分が今回被害が大きい能登半島。金沢含め下半分は被害が少ないので旅行に来れます。


ボランティアに行ける方や、支援をする方、現地情報詳しくは石川県公式HP、Twitterでは、石川県『もっといしかわ』というアカウントにアクセスください!

・石川県公式HP↓


石川県だけの力では、復興には近づきません。
どうか、皆様のお力をお貸しください。
今の私にできることが少ないですが、今回、友人からの声かけのおかげで今回の震災のことについて、まとめることにしました。

大好きな地元、石川県、能登半島のより早い復興を祈ると共に、私自身も出来ることをしていきたいと思います。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
皆様もどうかご自愛ください。


Nako

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