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ガンガンセリフを回している演劇を久々に見たら思いついた

血パンダを結成してこのかた棒読み劇団と呼ばれ続けている関係で、とんと無縁なのだけれど、諸般の事情で最近立て続けに、凄まじい勢いでセリフの発声に抑揚がつき節がつきして、いわゆるセリフ回しが達者という状態を目撃した。

ただ、達者ではあるものの、聞いていて、セリフが回って抑揚がついている割に、ここは強調して、この単語は捨てるのか。おそらく感情表現のポイントがこの辺にかかっているなら、どうしてその言葉は回しているなかで強調されることなく流れてしまうのかと、そんなことが気になって、やはり、セリフ回すのは、もっとこういうのが必要な場所でなら、かろうじてやれば良いかもしれないけれども、これに何らかの熱量をこめていくというのは、とても無駄なことだと考えたものだ。
(偏狭な主義者の意見なので、気持ちよくセリフを回したいとか、回ってないと死ぬってみんなは気にしないで。:)

そう考えて見ていて、改めて少し考えたものだが、要はその役者が台本に書いてある何を読み取って口走っているのかということよりも、喋り方や、言葉が出たか出ていないかという、そこに存在していること、そのものの様子の方が気になったということになる。
その土俵というのは、本当に必要なんだろうか。何を言っているんだということではあるんだけれども、少なくとも、「台本」と「役者」があって、「役者」が「台本」に書いてあることを実行するところから演劇が始まるとする。

「客」が見るのは、「役者」だけれども、そこに居るのは「役者個人」ではなく、「台本の登場人物」というわけだ。台本に書いてあるものが、文字から人になった状態。
演劇というのはここで、「役者」が何かをしている状態に演出が介入して整えた状態を見ているわけだけれども、役者の見た目や声や、芸の優劣みたいなことだろうか。それを見せるために、役者はずっといろいろと鍛えて、舞台上に居られる理由を勝ち取るとかいう場合もある。
余談になりますが、『コーラスライン』なんかが、その様子を描くフィクションだけれども、『コーラスラインにかける夢』なんて、コーラスラインを作るまでのドキュメンタリーですら、素晴らしい映画として見てしまえるわけで、「役者」の素材としての訓練というのは、確かにあってしかるべきなのかもしれません。
さて、ここで「役者」を見るというよりは、どなたか人気者が演じている状態を見るのが好きな皆さんも居られる可能性はあると気づきました。「役者」の芸が達者なところを見たい人も居る可能性は否定しません。申し訳ない。この与太は忘れてください。

さて、こちらとしては、役者の芸達者よりも演劇がどうやって目の前で実行されるかしか見ていないので、そのセリフが回っている様子自体がノイズになるというのを体験したわけです。
「台本」を立ち上げる「役者個人」が「台本」から何をどう読んだかという解釈を見せらた感じでしょうか。下手ではないし、自信満々でやっておられるので、流れた言葉というのは、解釈の違いということになりそうです。
君と台本の解釈を巡って何かを考えたいわけじゃない。演出家は、彼の達者なセリフ回しの中で、この単語が流れたこと、感情の山場と言葉の調子がずれたことに対して、稽古の間何をしていたんだ。
そんなことを考えながら演劇を見ていても面白くないわけです。セリフの言い方なんてのは、本当に無駄なノイズでした。

では、「役者」が「台本」に対して何も持ち込まないとしたら、そのまま台本が透けて見える様な演劇の作り方があるのではないかと、そんな風に考えたものであります。もしその台本の中で、彼が怒っているのか悲しんでいるのか、どちらとも取れる様な様子があるなら、「役者個人」が彼の解釈をそのテキストに反映せずに成立する形で「演出」が舞台の見え方を調整すれば、「客」はそのテキストの多層性をそのまま見ることができるのではないかと、血パンダではこれまで、「感情表現ではなく、何を考えているかが見て取れる様に」とお願いして演劇を作ってきたわけですが、もっと明確に、役者は「台本に対して何の解釈も挟まない」。「何かの表現力の優劣が見える様なことをしない」。ということで大丈夫のではないかと考えました。

役者が何もしないとしたら、役者には個性が残る筈。
個性という言葉がまだなにか自動的、能動的に行動した結果が含まれるとしたら、もっと本当にただ見てとられるだけの、誰も奪うことのできない個体性というのが、役者には残される筈で、その状態が「台本」を立ち上げ、演出が調整するだけで十分だろうと、そう考えたわけです。
そうなれば、役者のルックの良し悪しやら、何やらというのはそんなに関係がなくて、ただ個体性だけでそこに居ることになれば、それだけで見るべきものはある筈。問題は役者自身がそれに耐えられるかということなんですが、そこからが役者の鍛錬の時間になるといった次第。

なにはともあれ、台本にある可能性を、そのまま「見る人」に伝えるための方法は、セリフの言い方を考えている場所には無いなぁと、確信したものであります。

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