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どうやって演技してもらうかについてまだ考えている

このところ、何もしないをする方法をどうやって役者たちと模索するかばかり考えていて、改めて思い出した。
ロラン・バルトが見て取った様に、文楽人形が人の生きている様子を抽象化して表現しているとしたら、日本において人の姿というのは既に抽象化済みで古典になっているものがあって、だとしたら、現代劇をやるにあたって、生身の人間がどんなに型を求めて研鑚を積んでも無駄だ。
立ち位置を変えないと、古典技法の劣化版をやり続けることになるわけよ。
ちくま学芸文庫で『表徴の帝国』が出た時に即買って読んだので奥付を確認すると1996年十一月七日第一刷。25年ぶり二周目のこの地点は、前よりも格段にクリアだ。

『表徴の帝国』を読む前ちょっと前に文楽を初めて見て結構なショックを受けて、しばらくはまっていたので、実は文楽が最強の人間が動くフィクションなのではあるまいかと、うっすら考えていたものだけれども、これは「じゃぁ、ロボットと演劇したらええやないか」という結論に短絡しがちで、実は、そこは表面的でつまらないただの結果でしかないと、今なら断言できる。
今後どうなるかはさておき、今の時点では、どれほどの努力があっても、ボカロ程度の結果しか出ないだろう。もっと技術が発展した頃に、文楽をどう越えるのかかみたいな論考と模索が成立したら熱い。期待。

演劇を始めた頃ですら役者に対して「動くオブジェ、声も出るから贅沢」という認識を持てたし、そこから始まって、どうして生身の人間が現場にいて行為する必要があるのかという事について考え始めてしまっているわけで、さて、生身の人間がそこに居る以上、人間を抽象化しようとする試みなんて必要あるのか?
そこに至った。

いや、最近なんの気なくドラマを見ても、なんでわざわざその感情表現を記号化して、記号化の巧拙の土俵にあがる必要があるのかという風に見てしまうので、みんなも俺と同じ視点に陥って、ドラマ見るの辛くなったらいいよとか思いつつ、稽古場に行きたくてじりじりしているのでした。

次回プロデュース公演『真昼の藪』の詳細、そろそろ出します。

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