その時、市民は軍と闘った~韓国の夜明け 光州事件。
1980年5月18日、韓国・光州で市民と軍が衝突した!戒厳令の名の下に繰り返された軍の暴力。怒った市民は銃を奪い、バスやタクシーに乗り込んで押し寄せた。それはまさに市街戦だった。当時、韓国政府はその事実を隠蔽。真相を隠すため、道路を封鎖し、情報を遮断し、力で市民を鎮圧していった。その時いったい何が起きたのか?韓国に「民主化」の夜明けをもたらした光州事件、明かされる38年目の衝撃の真実。
今 静かなブームを呼んでいる
韓国映画がある。
それを すごい 思いました。
それは 突然の悪夢。
国を守るはずの軍が
なぜか 一般市民に
すさまじい暴力を振るい始める。
♬~
(銃声)
なぜ この街が
狙われたのか
理由も分からないまま
倒れていく市民。
(銃声)
実は この映画
実際の事件がモデルだ。
(叫び声)
軍の暴力を きっかけに
市民との衝突に発展した…
一体 何が起きていたのか?
(銃声)
♬~
今 お隣の国 韓国と言ったら
何をイメージしますか?
♬~
世界を席巻する
K-POPや映画にドラマ。
エンターテインメントの
発信地として おなじみですよね。
僅か 30年前まで
この国が軍事独裁下にあり
自由も厳しく
制限されていたとは驚きです。
軍が牛耳る国。
そんな韓国を 劇的に変える
きっかけとなったのは
ある地方都市で起きた事件でした。
日本では原宿で
「竹の子族」が踊っていた…
(銃声)
韓国では 軍が政権を握っていた。
北朝鮮の脅威に備えるとして
あらゆる自由を制限。
外国の音楽や本は
反体制的だと検閲され
女性はスカートの長さまで
規制されていた。
そして軍は
逆らう可能性がある者を
徹底的に弾圧した。
それが 悪夢の始まりだった。
自らを守るため
市民は立ち上がる。
そこで一体
何が起きたのか?
運命の分岐点は…。
ここから 事件が鎮圧されるまでの
10日間です。
闘いの舞台となったのは
街の中心を走る大通り。
制圧に訪れた軍を相手に
10万人以上の市民が
棒切れや 石などを手に
集まりました。
一体なぜ こんな事態が起き
そこで 何があったのか?
第1の視点は…
突然 この事態に巻き込まれ
やがて闘いに身を投じる
事になった 若き職人…
当時 二十歳でした。
韓国の夜明けを夢みて闘った
知られざる10日間。
その真相に迫る
アナザーストーリー。
光州市郊外にある 国立墓地。
ここには
「光州事件」で命を落とした
155人が埋葬されている。
あの日の事は
今も はっきり覚えている。
いきなり 銃声が聞こえ始め
隣にいた人たちが 銃弾を受けて
次々と倒れていきました。
(キム)私は 立ったまま
気を失ってしまいました。
心が痛むのは あそこに
最後まで 一緒に闘って死んだ
同士がいます。
夜中に酒を持ってきて
泣いて帰った事は
数え切れないほどです。
光州市随一の繁華街…
ここが 38年前の現場だ。
休日には 大勢の市民で にぎわう。
あの日も そうだった。
家具に装飾を施す職人だった
キムが
通りに やって来たのは
穏やかな日曜の午後。
ごはんを食べてから
1杯 酒でも飲んで
映画でも見ようかと。
とにかく 楽しもうと
出かけたんです。
道庁に向かう本通りに
さしかかった時だった。
突然 兵隊に腕を つかまれた。
道路にいた軍人たちが
いきなり来て
私は 道路の真ん中に
連れ出されました。
引き倒されて 銃や鎮圧棒で
殴られたり蹴られたり
ひどい暴行を受けました。
なぜ私が 殴られなければ
ならないのか
さっぱり分かりませんでした。
突然の出来事に
ぼう然とするキム。
だが この時 通りのあちこちで
同様の事態が起きていた。
その日の様子とされる映像が
残っている。
車から降りてくる兵士が
手にしているのは…。
これで 沿道の市民を
話も聞かずに殴りつけている。
なぜか若者だけが
無条件に狙われた。
そして 少しでも反抗的な
そぶりを見せれば
集団で暴行されたあげく
そのままトラックで連行された。
24歳の靴職人…
耳が聞こえなかった。
その日 友人と街に出かけたまま
ついに帰ってこなかった。
慌てて病院に行くと
霊安室に案内されたんです。
布一枚 開けてみたら 息子でした。
嫁は それを見て気絶しました。
鎮圧棒で殴られた傷が
この目では 見ていられないぐらい
ひどかったんです。
ですから 付き添ってくれた人に
連れ出されました。
それ以来 二度と息子の顔は
見られませんでした。
妻と3か月の娘を残し
キョンチョルは
理由も分からないまま
殴り殺された。
この日だけで 400人以上が連行。
一体 何が起きていたのか?
♬~
当時 政権を握っていたのは
陸軍の…
半年前に
クーデターを起こしていた。
大統領の座は目前。
だが 最大の敵がいた。
軍の独裁を厳しく批判。
国民的な人気を誇っていた。
特に その人気が高かったのが
彼の出身地にも近い…
経済発展からも取り残され
政権への不満は高まっていた。
事件の4日前には
大学生たちが 民主化を訴える
大集会を開いている。
その熱気を政府は警戒し
この日 「戒厳令」の
レベルを上げたのだ。
それが何なのか…
政府は光州に 警察ではなく
軍の精鋭である
「空挺部隊」を
送り込んでいる。
それは軍が 最初から
徹底的な鎮圧を狙っていた事を
物語っている。
翌19日。
通りには 2, 000人が集まり
不穏な空気が漂った。
軍は解散を命じるも
前日に大勢のケガ人が出ており
怒りが広がっていた。
中でも 暴力のターゲットにされた
学生たちは収まらず
石を投げ始める。
すると軍は
一般の家庭にまで踏み込んで
若者を連行し始めた。
午後 怒った学生たちの抗議が
本格化する。
石と火炎瓶で 軍を攻撃し始めた。
軍は 強硬手段に出る。
1, 000人以上の増援を送り
容赦なく鎮圧した。
見せしめに ズボンを脱がし
下着姿で連行。
兵隊の中には 酒臭い息を吐き
暴力を楽しむ者もいたという。
軍人は 国を守るために存在する
ものだと思っていたのに
なぜ軍人が光州に来て 学生たちに
暴力を振るうのだろうと
悔しくて 眠れないほど
頭にきました。
3日目
事態は思わぬ展開を迎える。
数万もの市民が集まり
声を あげ始めたのだ。
大人たちは口々に
暴力は必要ないと訴えた。
だが…
軍は催涙ガスを発射。
説明も 話し合いも
許さなかった。
軍に たてつく者は
北朝鮮に扇動された
共産主義者とみなす。
暴行の対象は
女性や老人にまで及んだ。
言いたい事も言えず
連行された先では
拷問が待っていた。
(キム)もしそうなら…
その日の暮れ。
市民たちは 自衛手段に出る。
バスやタクシー200台を先頭に
軍に対抗しようとした。
そこに続いた市民は
数万に上った。
いわれのない暴力に加え
市民の怒りに火を付けたのが
この事態をマスコミに
報じさせない情報統制。
事実が
ねじ曲げられていく様子は
映画で
こんなふうに描かれている。
(テレビを つける音)
(テレビを消す音)
軍は 街に通じる道路を遮断し
電話線も切り 光州を孤立させて
ウソの発表を続けた。
そして この晩
あってはならない事態が起きた。
(銃声)
軍が 市民に発砲したのだ。
なぜ そんな事態が
起きてしまったのか?
今回 あの現場にいた
指揮官の一人が
テレビの取材に初めて応じた。
空挺部隊の…
当時の事は
ずっと口を閉ざしてきた。
今回 応じたのは ある思いからだ。
軍人としては
光州市民に申し訳なく
罪悪感もあり
許しを請う気持ちです。
(シン)あの日の夜 12時ごろ
光州駅に集合した際に
憲兵隊が私たちに
実弾を支給しました。
私たちは全く
予測していませんでした。
まさか そんな事態が
起きるなんて。
シンの部隊は クムナム通りから
少し離れた光州駅にいた。
ある出来事が きっかけで
市民に発砲してしまったという。
市民が乗ったトラックが1台
駅のロータリーを回ってくると
兵士の一人が それを止めようと
道に出てしまったんです。
でも そのまま
トラックが走ってきて
彼が ひかれてしまいました。
そこで 何人かの兵が射撃して
トラックの運転手と
もう一人の市民が死亡しました。
とっさに射撃したのです。
(銃声)
夜が明け 市民が射殺された事実が
明らかになった。
夜の間に 更なる仕打ちが
行われていた事も。
そして この日
「光州事件」最大の悲劇が
訪れる事になる。
多くの市民が突然 軍による
いわれなき暴力に さらされる。
そうして 「光州事件」は
始まりました。
しかし 既に街は封鎖され
外部には
一切連絡が つかない状態。
まさに 孤立無援でした。
対峙していたのは
韓国軍最強とも言われた
空挺部隊。
でも その中にも
徴兵されただけの市民が
多く含まれていました。
それが 第2の視点。
大学を休学し
兵役に とられていた23歳。
意に反して 市民に銃を
向ける事になってしまいました。
若者は どんな思いで
鎮圧にあたったのか。
軍人の葛藤に迫る
アナザーストーリー。
軍の暴行で火が付いた
市民の怒りは 止まらなかった。
それを力で抑え込むため
政権が送った軍人は
3, 000以上。
その若者も この中にいた。
軍に入って
まだ1年の新人だった。
あの事件は 彼の心に
大きな闇を残す事になる。
イは この1年前まで大学生。
軍に入ったのは
皮肉な きっかけだった。
韓国では 19歳以上の男性に
義務づけられている…
大学でも軍事訓練が
行われるが
それを拒否し 目を付けられた。
しかし 軍で過ごした1年は
イの意識を変えていく。
北朝鮮による工作の恐ろしさを
徹底的に たたき込まれたからだ。
…という精神教育でした。
あの日 目的を
知らされていなかった イは
ついに北のゲリラと闘うのだと
緊張しながら
クムナム通りに展開。
そこで初めて
相手は学生だと知らされる。
思わず こんな行動をとった。
そして…
この日は 「光州事件」で
最大の犠牲者が出る日となる。
軍が市民を 一斉射撃したためだ。
その様子は
映画で こう描かれている。
♬~
(拍手)
♬~
(銃声)
軍の一斉射撃は
10分続いたという。
(銃声)
(銃声)
(銃声)
イの部隊は
この銃撃に参加していた。
この日 市民たちは
バスや車を先頭に
クムナム通りへ。
そして 道庁前にいた
イの部隊を目がけて
突進してきた。
イは 怖くなった。
任務を放り出し 逃げ出した。
クムナム通りの突き当たり
道庁の地下に へたり込んだのは
午後1時 少し前。
♬~
軍は その時
国への忠誠を歌う
愛国歌を流したという。
その瞬間を取材した
記者のメモが残っている。
午後1時 愛国歌が響いた直後。
(銃声)
その時 職人のキム・コンヒュも
その場にいた。
この一斉射撃で
少なくとも 54人が死亡。
500人以上が負傷した。
♬~
罪もない人々が
自分たちの国の軍隊に
撃ち殺されたのだ。
その時 悲壮な覚悟を胸に
立ち上がった男がいる。
今も光州に暮らす…
間もなく市民は 銃を手に
市民軍を結成する。
この銃を調達したのが カクだ。
(カク)我々がトラックに乗って
ボディーを たたきながら
進んでいくと
警察が 検問所から
飛び出して
裏の山に
逃げていきました。
彼らは手ぶらで逃げたので
残してある銃を手に入れ
更に 警察署に向かいました。
すると 誰もいない警察署に
ものすごい数の
銃と弾薬がありました。
市民の多くは兵役経験者。
彼らが若者に
銃の扱い方を教えた。
その場にいると
怒りが収まらなかったんです。
「最後まで光州を守ろう」
と思いました。
市民の遺体が多くなるにつれ
「死」についての怖さも
なくなりました。
死ぬ事は大した事じゃない。
自分の「死」を
恐れなくなったんです。
自分たちの街を守るために。
市民は 団結する。
そして ついに
軍を街から追い出した。
(歓声と拍手)
街を守る闘いは いつしか
祖国を民主化するための
闘いになっていた。
この歌を歌ったのは
自分たちこそ
祖国を愛していると
思ったからに違いない。
♬~
だが 軍が
引き下がるはずはなかった。
体制を増強し
郊外から包囲網を縮めていった。
抵抗する市民軍に対しては
射殺の命令が下された。
指揮官の…
彼の部隊にも 命令は下った。
撃てと言われたら
皆 射殺しました。
そんな事を
10回ほどやったので
私の記憶では 25~35人は
死亡したと思います。
そして その遺体を放っておくと
市民に見られて よくないので
どの遺体も適当な場所に埋めて
隠しました。
次第に追い詰められた市民軍は
ついに9日目の夜
道庁舎に立て籠もる。
最後まで闘った市民 およそ200人。
「明日未明 軍が道庁を制圧しに
やって来るので
命を懸けて道庁を守る人を
自発的に選抜する」と
言われました。
それで 私も最後まで
一緒に守ろうと。
銃を手にして闘う決意をしました。
軍による制圧が始まった。
それは もはや
一方的な殺戮だった。
軍の発表によれば…
だが 多くの人が
実際は その何倍にも上ると
口をそろえる。
キムは 道庁舎で逮捕され
闘いを終えた。
「光州事件」は 力で鎮圧された。
だが 市民が願った民主化は
7年後 ついに現実のものとなる。
圧倒的な軍の力で鎮圧された
「光州事件」。
それは 韓国の歴史に
何を残したのでしょうか?
あの残忍な暴行が
繰り広げられていた
さなかの事でした。
大通りから少し離れた家では
一人の母親が
愛する息子を守ろうと
布団を
かぶせていました。
その母親が
第3の視点。
彼女の息子 イ・ハンニョルは
事件の7年後
民主化への闘いの
先頭に立ち 倒れます。
そして 彼の死が
韓国の夜明けを呼びます。
「光州事件」から つながる
自由への闘い。
息子を奪われた母親。
慟哭の アナザーストーリー。
首都ソウルにある…
この大学の正門前には
一人の学生を追悼するプレートが
埋め込まれている。
1987年 この場所で
催涙弾の直撃を受け 亡くなった…
彼も 光州で育った一人だ。
母親は これまで
ほとんど取材に応じてこなかった。
だが今回 海外の人に
息子を知ってもらえるならと
インタビューに応えた。
時間が過ぎたから
忘れてしまうんじゃなくて
時間が たてばたつほど
悔しくて 悔しくて…。
そういう気持ちもあるんです。
母親が 秘めてきた思いとは。
彼女の息子 イ・ハンニョルは
5人きょうだいの4番目。
真面目で優しい子供だったという。
「持っているものは みんなと
分け合える人になってほしい」
と話しました。
ハンニョルは 「そうします!」と
素直に返事をしたんです。
「光州事件」が起きたのは
息子が 14歳の時。
その日 夫は不在だった。
家は 市の中心部から遠くない。
様子を見に行った母親は
その光景に 思わず目を覆った。
家に帰り とっさに思ったのは
子供に絶対に
この むごすぎる光景は
見せてはいけない という事。
道庁の周りには棺が
たくさん並べてあって
言葉になりませんでした。
私は それを直接見たんです。
当時 ハンニョルは
中学3年生でしたので
この部屋から絶対に
出られないようにしました。
銃声がしたので
息子に布団を かぶせました。
流れ弾が飛んでくると思って。
こんな悲劇を生む政治運動には
絶対に関わってほしくない。
だが母親は この日の行動を
生涯 悔やむ事になる。
7年後。
ソウルオリンピックを
翌年に控えた年。
息子のハンニョルは
首都ソウルで
大学生になっていた。
このころ 再び学生たちの間で
軍事政権への不満が
高まりつつあった。
クーデターから大統領に就任した
チョン・ドファンは
市民から再三 求められるも
大統領選挙を拒否。
更に…。
不穏な空気を感じた母。
息子に 万が一
デモに参加する時は
一つだけ
約束を守ってほしいと伝えた。
「男らしくデモをやるのはいいけど
後ろでやりなさい」と言いました。
「前に出るんじゃないよ」って。
ハンニョルは 「そうします。
お母さん 心配しないで」
って言っていました。
だが息子は あの日
デモの先頭に立った。
その理由は 皮肉なものだった。
大学で学生運動に
参加し始めた頃
ハンニョルは 「光州事件」の
犠牲者が眠る墓地を訪ねている。
自分より年下の子供までもが
犠牲になっていた事に
激しいショックを受けたという。
こんな作文を書いている。
子供の お墓の前で
「お前の敵を 俺が取ってみせる」
と話したそうです。
地元の「光州事件」を
深く知らなかった事は
ハンニョルに
強い 贖罪意識を抱かせた。
学生たちは
大規模な抗議デモを行った。
(銃声)
その時 政権は
再び強行な鎮圧に乗り出した。
機動隊は
空に向かって撃つべき催涙弾を
学生に向けて発射。
(銃声)
それが 仲間を守っていた
ハンニョルの頭を直撃した。
これが その瞬間の映像。
機動隊から
仲間を逃がすため
ハンニョルは最前列で
体を張っていた。
仲間の イ・ジョンチャンは
意識の薄れるハンニョルを
必死で病院に運んだ。
私も催涙ガスを随分 吸い込んで
フラフラの状態でした。
ハンニョルが
意識不明になっていた時
デモをしている学生だけでなく
大学の多くの学生が
彼の回復を祈っていました。
母のもとには すぐに
病院に来てほしいと連絡が。
「イ・ハンニョルが危篤です」と
電話があったので
「なんで うちのハンニョルが
危篤なの?」と いくら聞いても
「危篤です。 大学の病院に来て
下さい」としか言いませんでした。
病室でチューブに つながれた
ハンニョルが
今でも見えるんです。
催涙弾に倒れる
ハンニョルの姿は
新聞で報じられた。
それは 市民を立ち上がらせ
政府への抗議の声を あげさせた。
(クラクション)
抗議デモには
サラリーマンも参加。
その主力となったのは
学生時代に 「光州事件」を
体験した人々だった。
「光州事件」の経験者…
「光州事件」で 民主化を
やり遂げなかった悔しさは
大きなトラウマでした。
そんな私に
イ・ハンニョルさんの事は
とても大きな衝撃でした。
ですから それまでは
傍観する姿勢でしたが
積極的に参加すべきだと
思うようになりました。
ハンニョルが倒れた事を
きっかけに
反政府運動は
韓国全土に広がった。
その勢いは 史上空前。
そして ついに…。
軍事政権が 言論の自由と
大統領の直接選挙を
初めて認めた。
だが ハンニョルが
韓国の民主化を見る事はなかった。
意識不明のまま その6日後
この世を去ったからだ。
その葬儀は
ソウル市内の大通りで
100万人が集まって行われた。
韓国国民の悲願だった
国民投票による大統領選挙が
実現したのは
この年の暮れの事だ。
英雄になった息子。
だが母親は
ずっと あの事を悔いてきた。
自分のせいで
息子は贖罪意識を抱え
命懸けの闘いに
身を投じてしまった。
自分のせいで。
「光州事件」の時 この部屋から
出られないようにしたのが
間違いでした。
あの時 ちゃんと
見せておけばよかったんです。
ハンニョルの「死」が 無駄死にに
なったのではないか。
そう思う時もあります。
しかし 2016年に
「ろうそくデモ」が
ありましたよね。
そんな事が起こると
多くの人々は 不正に抵抗する心を
忘れずに生きているんだと
そういったものが
目に見える時は
ただの犠牲ではなかったんだと
思えます。
息子の死が 少しでも
この国の力になったのであれば
親は それで諦めるしかないのかな
と思ったりもします。
一日に何回 考え方が変わるのか
自分でも分からないです。
なので つらいです。
好きな音楽を聴き
好きな本を読み
自分の思いを堂々と話せる自由。
その自由が
韓国の人々に訪れたのは
ほんの 30年前。
彼らの まさに
命を懸けた闘いによって
勝ち取られたものでした。
さて 私たちの自由は
どうでしょうか?
「光州事件」から 38年。
それは韓国の人々に
何を残したのか。
民主化以降に生まれた若者たちに
聞いてみた。
だが当事者にとって
事件は まだ終わっていない。
鎮圧にあたった…
事件のあと 牧師になった。
軍人側で初めて
批判を覚悟で
事件の手記も公表した。
「光州事件」については
歪曲された事も
たくさんあります。
事件後 我が国の心ある人たちには
罪悪感のようなものがあり
事件の真相を伝える必要があると
思ったんです。
事件で指揮官だった…
長い沈黙を破った今
行方不明の遺体の発掘に
協力している。
この辺に埋めてあげました。
今は 確かな真実を明かそうと
思うようになりました。
せめて 犠牲になった方の
魂だけでも慰め
光州市民の無念さを晴らす事で
本当の和解をしなければと。
このまま 真実を隠し通したら
それこそ悲劇だと思います。
38年前 多くの命が奪われた
クムナム通り。
(歓声と拍手)
この通りは今
市民の憩いの場になっている。
(歓声と拍手)
♬~
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