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【会社沿革:第1回】「岐阜の身近な工務店」仲谷住宅 note を開設しました!

はじめての方へ


HPを見て頂いた方 はじめまして!

岐阜市で創業50年を超え、地元に根差した地場工務店として

建築業を営んでおります、

仲谷住宅 株式会社 と申します。

岐阜、愛知のみに絞ったとしても、数多くのハウスメーカー、工務店が
皆様の住環境を支えているわけですが、

その中で、

私たちがどんな会社で、どんなこだわりをもっているか、


そして、

岐阜の身近な工務店として、私たちが皆様に出来ることは何か


といったことを皆様に知っていただきたく、このnoteを開設いたしました。


日々、岐阜,愛知の住宅事情や私たち仲谷住宅のことについて

発信していきますので、気になる記事だけでも読んでいただいて

私たちのことを知っていただけると幸いです。

どうぞよろしくお願い致します。


まずは手始めに私たち仲谷住宅の成り立ちから書いていこうと思います。

初代立ち上げ~存続危機


初代の生まれは郡上の高鷲村、

岐阜に出て宿屋の下男やミシン販売などを経て、

建具の入れ替えやトイレの増築など、
(当時としては小さな)リフォーム未満の仕事を請け負う便利屋として生計を立てていました。

ある時、親戚からの紹介もあり、

仲間とともに
当時の大手ハウスメーカー「永大ハウス」の仕事を請け負う指定工務店を創業しました。

・・・

が、何年か仕事をさせて頂いた矢先、突然の大型倒産!

戦後最大の倒産劇とも言われ、

まさかあの「永大ハウス」が・・・と住宅業界は大混乱。

1978年当時のことを後年、初代である父と酒を飲んだ時、

「あの頃で4000万の売り掛け※(未回収の後払い金のこと)があり、
もうダメだと、故郷の高鷲村の山から落ちて死のうと思った」
「ただ、山の上から民家の灯りを見ていたら、皆頑張って生きているんだ、
と思い直し、山を下った」

と笑いながら振り返っていました。

その頃、三井不動産が2×4住宅を世に送りだそうという事で

建築部門を独立させ、三井ホームが設立。

倒産した「永大ハウス」から経験者が数多く入社しました。

その中の御一人がビルダー(指定工務店)として弊社を推薦下さり、

創業期の三井ホームの協力業者として、
どん底からの再スタートを切れたのです。


人の御縁がいかに尊く、有難いものであるか

初代はずっとこのことを繰り返し話してくれました。

2代目 三井ホーム入社、営業No1へ


三井ホームによる革新的な2×4工法は低コストで地震にも強い、
という事で世間に受け入れられ、順調に棟数も増えていきました。

そんな中、現社長である私は当時大学4年生。

詳細は略させていただきますが、
剣道の日本代表であった私は当時オーストラリアから剣道指導の依頼を受けており、
現地で住むアパートも決め、いざ海外へ!という段階でした。

そんなとき、当時の三井ホーム副社長が仲谷住宅を訪れ、

「そんな浪人みたいなマネはよくない!
そんなことをするくらいなら三井ホームで働いてみなさい」
「三井ホームで経験を積んで、勉強してから、お父さんの仲谷住宅に
帰ればいいじゃないか」

と、(半ば強引に笑)私を三井ホームに入れてくださったのです。

とはいえ私は建築学科でもなく社員という立場ですらないので

研修も受けれず、いきなりモデルハウスへ行って

来場された方にパンフレットを配って宣伝する…という指令を下され、

何と1年目で24棟、4年で100棟受注という

今でも破られていない快記録を打ち立ててしまいました。

当時は月1受注が目標で実際は0.8棟くらいの実績でありましたから、

自分で言うのもおこがましいのですが、これは驚異的な数字でした。

社内日報で次世代のリーダーだの、将来インタビューだの・・・

喧々諤々と賞賛の声をかけられているうちに、

「岐阜に帰って仲谷住宅を継ごう」

などという考えはどこかに飛んで行ってしまったのです。



今回はここまでとさせて頂きます。

お読みいただきありがとうございました。

仲谷住宅 仲谷隆博






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