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「短歌の友人」

穂村 弘著

7年前に新聞で短歌の記事を読んだ。

「 水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしをめぐるわずかなる水 」

服部真里子さんによるこの歌が、いくらなんでもわからないよと議論を呼んでいる、という記事だったと思う。

なんの気無しに新聞で上の歌を読んで、本当に目眩を感じ、衝撃を受け、短歌に興味を持ち始めた。

それまで、万葉集や百人一首など、有名な歌はそれなりに知識として知っていはいるものの、感動することはほとんどなく、なんなら「うまいこというなあ」とか「言葉選びが上手いなあ」程度の感想しかもてず、言葉遊びとの違いもわからず、歌に感動する人たちを横目に、私にはもののあわれとか、日本的な情緒や歌の深みのような、そういったものは感じられないのだろうなあ、一生… と自虐めいた諦めをしていた。

そんなふうに思っていたのに、

「 水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしをめぐるわずかなる水 」

を読んで、いきなりガツンとくるような衝撃と、確かに体感したと思える目眩を感じて、呆然としながらとても嬉しかった。

その後、服部さんの歌集を読んだり、インタビュー記事を読んだり、他の歌人の歌を読んだりから始まり、自分でも詠んでみたりしてみたわけだ。

穂村弘さんはエッセイを知っていて、あのふんわりした文章を書く方は歌人であるらしく、雑誌で短歌の選もしているようだと、ぼんやりした知識でじわじわ近づいて、「短歌の友人」にまでやってきた。

「短歌の友人」では、現代の歌人の歌を読んで味わいを描いている。言葉の選び方、並べ方、音、リフレインや口語、言葉のモノ化など、見どころ?を示しながら、ご自分の感じたことや歌の後ろに広がる世界を書いている。

言葉にはこんな深みがあるのだなあと、思う。

散文とは違う一定の括りがある短歌の中で、歌人たちは何を追っているのだろう。なかなか苛烈な世界で、まいったなあと思ってしまった。

文庫本で、本文は250ページ弱。厚い本ではないし、決して読みにくい文章ではないけれど、読了に4ヶ月以上かかっている。一気に読めなかったの。

都度都度立ち止まって、考え込んでしまったり、つらくて読み進められなかったり。今の社会情勢も関係していると思う。

感染症が蔓延して、パンデミックになり、何が変わったって、人の死が驚くほど近くにあること。生活のパターンは変わったし、マスクするし、外食はぐんと減ったし、おしゃべりも減った。自分の体は健康だし、家族も友人も仲間も近所の方も、変わらずに見える。でもウィルスがいて、普通に暮らしている友人が、ある日死んでしまうかもしれない。私もある日死んでしまうかもしれない。

死なないためにマスクもするし、外食も控えるし、おしゃべりも減らすし、とにかく色々我慢する。人生に無理やり直面させられているよう。

物の見え方は随分と違ってきているし、大切に思うものも変わってきた。

こんな今だから、「短歌の友人」が沁みたのかもしれない。

もしかしたら、私にも歌の後ろに広がる世界が感じられるようになるのかも。それが嬉しいことなのか、ちょっと諦めを含みことなのか、まだわからない。私は揺れ動いている、という感覚はあった。


本を読むときには、ブックカバーをして読み、読み終わったらカバーを外すのだけれど、読み終わって外したら、表紙がとても美しくてため息が出て、うまくかけなくてもいいから今の気持ちを書き留めておこうと思えたのです。結局まとまらないけれど。

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