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ようやく自分ごとになった未来

「世のため、人のため」

小さいころから、よく聞かされ耳にする言葉だった。特に違和感もなく、誰かのためになることをすることは、とてもよいことだと疑う瞬間はひとときもなかった。

インドでスラムの子どもたちに無償で教育機会の提供。ラオスでゴミの分別啓発や廃棄物処理に関するリサーチ。東京でアフリカの人たちに向けたチャリティーイベントの開催。地球温暖化やフードロスに関する研究。豊かな食をあらゆる人に届ける事業。などなど。

自分の半生を振り返ると、"それっぽいこと"はなんとなくやってきた。その場その時で自分が心からやりたいことだったし、世のためにも人のためにもなっていたと思う。でも、今振り返ると、どこかで"自分ごと"ではなかったのかもしれない。

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未来が"自分ごと"になった瞬間

2020年代をどう生きていこうかーー(年末年始に考え始めて放っておいたら、もう2020年半分が過ぎ去ってしまった...)そんなことを考えていると、20年代が終わる2030年には、ちょうど現在2歳の子どもが小学校を卒業するタイミングだと気づいた。

「2030年〇〇小学校卒」

えっ、、ちょっと待って。2030年卒??あれ、ということは順当に大学卒業したら、、そこから10年だから、2040年卒??自分は2012年大学卒業だったから、もはや未来もいいとこだ。数字にまるで現実感がない。さらに先まで考えると、2100年、僕は112歳になる年だから、たぶん生きていない気がするけど、今目の前にいる子どもは80歳。生きていてもなんらおかしくない。

2100年なんて、はるか彼方の未来で全く自分に関係のないことで、思いを巡らせることすらなかったけど、自分の子どもが生きていると思うと、急に自分ごとに感じる。

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未来の子どもたちからの"前借り"の上に成り立つ"今"

今の暮らしは多くの限りある資源の上に成り立っている。統計によると、石油の可採年数(確認されている埋蔵量を年間生産量で割ったもの)はあと50年、天然ガスは51年だ。このままのペースだと2070年代には枯渇する。自分はもちろん、僕たちの子どもやその子どもたちは、石油や天然ガスに頼った暮らしはできない。

この数字がどれくらい正しいのかとか、新たに資源が見つかるとか、火星に移住とか、そういうことは置いておき、数字で並べられ、自分の子どものことを思うと、ヤバさが一層現実的なものになる。これらの数値を見るのは初めてじゃないのに。これがきっと当事者意識というものなんだろう。薄情な人間だな、とも思う。でもしょうがない、そう思ったんだから。

「未来の子どもたちから限りある資源を前借りして、豊かな暮らしを悠々自適と送りたいんだっけ?」

答えはNoだ。とてもじゃないが自分の子どもに顔向けできないと思ってしまった。でも今の暮らしは誇れるものじゃないかもしれない。

特に東京から北海道に移住してから、車生活になり、冬の石油ストーブ暮らしが日常になった。だからこそ、暮らしと資源のことが自分ごととして感じられるようになったのかもしれない。冬に暖房がないとか、無理。死ぬ。

かといって、今すぐ原始的な生活に戻せるわけでも、それが正しいというわけでもない。数多あるトレードオフを鑑みつつ、少しでもよいと思う方向に自分の暮らしを変えていきたい。

2020年代は「とてもいい環境を残すこと」に取り組む10年にすることにした。10年といわず、生涯のミッションになりそうだけど、ひとまずは10年、しっかりやりきります。

最後に大好きな井上ひさしさんの、「100年後の皆さんへ、僕からのメッセージ」を紹介して、じんわり気合いを入れて終わります。

100年後の皆さん、お元気ですか?
この100年の間に、戦争はあったでしょうか?
それから、地球が駄目になるのではなく、
地球の上で暮らしている人間が、
駄目になってはいないでしょうか?
僕たちの世代は、それなりに
一生懸命に頑張ってきたつもりですし、
これからも頑張るつもりですが、
できたら100年後の皆さんに、
とてもいい地球をお渡しできるように、
100年前の我々も必死で頑張ります。
どうぞお幸せに。

井上ひさし

読んでいただきありがとうございます!