希望とはただそこにあって、紡がれていくもの。
"Do not despair"
希望をテーマにコラムリレーを書くことになった。その際真っ先に思い浮かんだのが、映画『独裁者』でチャップリンが多くの兵士を前に語ったこの一言だった。「絶望してはいけない」。
━━コラムのテーマが希望になったきっかけは、もちろん、コロナだ。コロナは、人が死ぬ病気だ。そして現状ワクチンはない。この先以前のような暮らしができるのか、先行きも見通せない。そんな現実を前にして、果たして「希望」を書くことはできるのだろうか?
・・・あれこれ考えてみたけれど、思考は進まなかった。だから、身近なことを考えてみる。僕にとっての「希望」とは何なのだろうか。
それならすぐ出てきた。大切な人が、生きてくれていること。大好きなパートナーが、子どもが、家族が、生きていること。仕事や旧知の知り合いが生きていること。彼ら彼女らの大切な人が、生きていること。いつも、あるいはたまに行くお店の店員さんが今日も生きていること。大好きな漫画家やお笑い芸人の人が今日も生きていること。などなど。
そう考えると、みんな生きてくれていれば、それが希望なのだ。
生きることは、誰かの希望になる。いや、なっている。
そんなことを考えていると、こんな言葉にであった。
人が周囲に与えられる最大のものは、自分自身のプレゼンス(存在していること)である。━━ Carl Rogers / 心理学者
ああ、やっぱりそうなんだ、と腑に落ちた気がした。存在すること、つまり、生きてさえいれば、それでいいのだ。むしろ、それが最高なのだ。
僕たちは今、わかりやすく、「人が死ぬ」、という病気の脅威に晒されている。そんな世の中における「希望」とは、自分が、そしてあなたが、生きていることなのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。
この文章を読んでくれているあなたが、今どういう状況にいるか、僕は(たぶん)知らない。だけど、仮にあなたの置かれている状況が、どんなに悲惨で絶望的なものであっても、あなたが生きていることは誰かの希望になっている。少なくとも僕は、この言葉が届いている人にはみんな、生きていてほしい。
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最近、「高校生のための文章読本」という本で、原民喜さんの「鎮魂歌」の一部を読んだ。原民喜さんは広島原爆を経験し、多くの人たちが死にゆく瞬間を見送ってきた。彼は原爆で直接亡くなることはなかったが、その数年後に鉄道に身を横たえて自殺をしている。
人は極度の絶望に直面したとき、希望を見出せず、自ら命を絶ってしまうことがあるのだと痛感させられた。「生きてほしい」だけでは、希望にはならないのかもしれない。
彼の文章を読みながら、僕はおばあちゃん(すでに他界)のことを考えていた。おばあちゃんは、長崎に原爆が落とされたとき、現地の工場にいた関係で、被曝している。そう、つまり、僕は被曝3世である。幸い、おばあちゃんは晩年まで被曝の影響で苦しむことはなかったし(死因も関係ない)、僕のお父さん世代や僕自身の健康状態には何ら影響はない。
少し前置きが長くなってしまったが、言いたいことはこうだ。仮に、僕のおばあちゃんが自ら命を絶っていたら、僕は生きてこの文章を書いていない、ということ。だから、この文章を読んでいるあなたは、希望が紡がれた結果を目の当たりにしていることになる。
生き抜くことは、次の世代に、希望を渡すことなのだ。生き続けてさえいれば、周囲に与える影響は続いていく。それが、バタフライ効果的に、希望を紡いでいくことは十分ありえると思う。
「絶望してはいけない」、はちょっと強い表現で受け入れがたいかもしれない。でも、生き続けてさえいれば、それが希望になり、紡がれていくのだと信じられるようになった気がする。
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あとがき。このコラムリレーはかよにゃんさんからバトンを引き継いで書きました。
かよにゃんさんはコラムの中で、「私の希望は早く学校が始まって欲しい」と書かれていた。「希望」ってなんだろう、、と悶々と頭を悩ませていた僕に、「日常の、自分の希望を書けばいい」と教えてくれました。素敵な言葉を紡いでくれてありがとうございました。
このnoteは「書く」を学び合い、「書く」と共に生きる人たちの共同体『sentence(センテンス)』にて実施中のコラムリレーに参加しています。今回のリレーテーマは「希望」。希望をつなぐ次なる走者はayakaさんです。お楽しみに!#書くと共に生きる #sentence #希望
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