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ソーセージと私

今日は学校から帰ってくると母が弁当を作ってくれていた。卵焼き、魚肉ソーセージ(ウィンナーの方がいいかな?)、変な魚の死体がおかずだった。

結構おいしかった。昔はなぜか魚肉ソーセージを敵視していたところがあった。もともとソーセージ、ウィンナーの類がとても嫌いな子供だった。あの細長い物体の中に牛や豚の腸に入っていたものがねりねりされた状態で、わずかな隙間も残さずに詰め込まれていることを想像しただけで悪寒がした。味がどうであるとかそういう細かな問題あ考慮しなかった。ただ牛豚の内臓が詰め込まれているという感覚のみが僕を縛り付けていた。

しかし僕は魚の切り身や烏賊のテンプラなど海産物に関しては平気だった。今になって考えてみたら魚や烏賊は海から上がってきたものであり、その中にいるものは海水で清められているという感覚があったのだろう。改めて考えると単純である。

そして魚肉ソーセージというものは海産物でありながらソーセージという枠組みにあっさり妥協してしまった「かっこわるい」存在だった。かまぼこなんかはかまぼこという一つの枠組みがある。ちくわもそうだ。もちろん食品に意識があるわけではないから責めることはできないけども僕にとって魚肉ソーセージは裏切り者だった。

でも今は魚肉ソーセージを食べることに抵抗はあまり感じない。それどころか今日のようにおいしいと言って食べる。たぶん僕自身が成熟(自分で言うのも恥ずかしいが)したのがそうなった原因の一つだと思う。その時は自分のアイデンティティみたいなものをしっかりと確立することに執着していた部分がある。この時のアイデンティティは「他の誰にも似ていない」ことを目的としたもので自我に強く訴えかける反面、誰とも共通項を持っていないから自分の存在の根拠を脅かす危険性もはらんでいる。そこから自分なりにサバイバルしようという意識が生まれ、そうでない自分を受け入れられるようになってきた。それと同時に裏切り者であった魚肉ソーセージとも和解することができた。素人の考察だからどれだけのものかわからないけれどこんなところじゃないだろうか。なんだか無茶苦茶なことを言っているような気もする。これで終わりにしておこう。

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