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もうすぐ(ショートショート)

 戸棚から紅茶の缶を出した。カサカサと軽い音がする。上部の丸い小さな蓋を開けると、残り少ない茶葉が見えた。この缶の茶葉がなくなったら、わが家の紅茶は全てなくなってしまう。ポットに茶葉と湯を入れて蒸らす。「そろそろだな」
 紅茶の残りが少なくなったら、山に住むおじさんのところへ行くことになっている。茶摘みをするのだ。おじさんは熊のような体格で、わたしは「くまさん」と秘かに呼んでいる。五月の新緑で埋められた山道を通り、かなり標高の高い山小屋に着くと、くまさんが手を振って待っててくれている。毎年のささやかな楽しみだった。
 でも今年は違った。三月の終わり、まだコートも脱ぎ切らないうちから、くまさんから手紙が来た。今年の茶摘みはなしにしよう。そんな内容だった。正直に言って、かなり凹んだ。一年に一度の楽しみなのに、と返事を返したくらいに。
 くまさんは、それなら摘み取った茶葉を送るよ、と提案してくれた。いつもなら二人で一緒に茶葉を炒ったり揉んだりするけれど、一人でやってみたら、と言ってくれた。一人でできるかな、と不安がるわたしに、「大丈夫!」とくまさんの低い声が聞こえるような筆跡で返ってきたものだから、その提案を受けてみることにした。
 それから、どれだけの資料を読んだことだろう。茶葉を軽く乾燥させるために炒る方法は、ホットプレートで。揉む作業は、熱い茶葉を触るから軍手が必要だな。日本茶ほど揉み切らずに、ある程度の段階でオーブンに入れて発酵止めをすること。風通しの良いところで乾燥させて完成。
 ポットの茶葉が十分に広がったようだ。お気に入りのカップに紅茶を注いだ。くまさんの紅茶は香りがいい。木々を柔らかく通り過ぎる風のようだ。わたしが作った、わたしだけの紅茶はどんな香りがするのだろうか。玄関からチャイムが鳴った。くまさんからの荷物だった。添えられた手紙には、紅茶の作り方とともに、「伝染病が収まったら、遊びにきてください」とあった。

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