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スタートアップの青春を経ての今の自分

はじめましての方へ

こちらの一番目の記事をご覧いただけると幸いです!

今回は僕の仕事歴についてのお話です

【主な遍歴】
▽小学校日本語教師
大学卒業後、アメリカのポートランドという地で日本語教師のインターンを1年

▽Brasyna, Inc.
海外向けEC立ち上げ、制作会社の社内新規事業のメンバーに入り、6カ月で事業撤退・・・

▽港区バイリンガル教員枠非常勤講師
小学校日本語、英語教師日本にて小学校の教員に戻り1年と1学期

▽Tokyo Otaku Mode Inc.
各部署の立ち上げを日本で経験し、2014年〜2019年でUS法人・拠点の立ち上げと経営

▽Ultra Tokyo Connection LLC
Good Smile Company(日本のホビー・エンターテインメント会社)の米国子会社にて、マネージャーとして転職

そしていま新たに・・・

こんな経歴ですが、最後に最新の動向を書きますので、お付き合いいただけると幸いです!(飛ばしてもらって結構です笑)

Tokyo Otaku Mode Inc.での青春

「スタートアップ」がなんとなく流行って、企業が普通になってきたような今だからこそ、この体験を共有することはとても良い機会なのかなと、思っています。
Tokyo Otaku Modeに参画した経緯や、USの立ち上げなどなど、少し今まで話してこなかったことを今回は書いてみます。もちろんコンフィデンシャルな内容は一切含みませんし、みんなが期待しそうな(笑)、特段悪口も書きません。ただ、やってきたこととその時の心情を覚えている限りで書きたいと思います。おそらく長文になるのですがご理解いただけますと幸いです。

その日は突然やってきた

Tokyo Otaku Mode との出会いは、二社目の制作部の先輩であるモリサワさん(Tokyo Otaku Mode のCCOでロゴを作った人)から、会社を辞めることが確定したときに誘っていただきボランティアとしてチームに入れてもらいました。当時は、亀井さん(Tokyo Otaku Mode現会長)が務めていた、電通の会議室で作戦会議(ミーティングなんだけど僕はそう思っていた)をしたり、教員の僕には刺激的な毎日でした。
エンジェル投資家の小澤さんの家の地下がオフィスになってからも、俗に言う放課後に手伝いに行き、FacebookのBan用語リストから、海外の家さがし、necomimiの営業など、いろいろなことをやっていました。
教員生活も忙しくなり、週末しか顔を出せない時期があり、突然亀井さんに呼び出されました。なにか言われると思ってたので、結構ビビってたのですが、一言目が「中田くんさ、いつ今の仕事辞められるの?」でした。ちなみに当時亀井さんは入院されていて、ベッドの上でした笑

悩んだ挙げ句、答えは保留で一ヶ月猶予をもらいました。当時、港区でバイリンガル教員という(なんか胡散臭い笑)ポジションで非常勤講師をしており、次の年の契約まで更新してしまいました。日本の学校に行かれた方はご存知かもしれませんが、基本的に教員が年度の途中で辞めるということはほとんどありません。ありえないし、あってはいけないのです。更に同時期に、アメリカのポートランドでの日本語教員の話も浮上して、ハゲるくらい悩みました。結局、日本語教員の話はビザの関係上NG。あとは教員と、Tokyo Otaku Modeとの天秤です。

決めたのも結局直感みたいなものでしたが、「教員というやりがい」と「挑戦というやりがい」をくらべて、迷ったけど難しい方向にどうしても行きたくなってしまい、また、教員免許というバックアップもあり、Tokyo Otaku Modeにジョインすることに決めました。決めては、当時の経営陣にうまいこと青山一丁目の喫茶店(当時のオフィスの近く)に誘われて、フラッシュモブ的に経営陣が集まって来て、お話を頂いて「必要とされている!」と思わせてもらって意思決定しました。

当時の学校の先生方にはもちろんご迷惑をおかけして、校長先生にはものすごく怒られましたが(あたりまえ)、現場の方々は快く応援してくださって、今の自分があります。そして、教員である親ともバトルをして、漫画のようにきれいに居酒屋で喧嘩し、Tokyo Otaku Modeにジョインしました。親父が箸を投げてた姿は一生忘れません。多分教員としての自分にも期待してくれてたんだろうな。っていまならちょっとだけわかります。

フロッピーディスクからGoogle Driveへ

嘘みたいに聞こえますが、教員のときはフロッピーディスクを使っていました。学級通信を翻訳していたので、いつもクリアファイルに日本語版の印刷された紙と、フロッピーが入っているのです。外付けのドライブは一人一台でした。そんな僕が、ビジネスの世界へ入り、Google Driveとか、Spreadsheetとかそういうものを使い始めて、めちゃくちゃな変化でした。
当時のTokyo Otaku Modeはほんとにスタートアップで、寝る間を惜しんで働く的な、Facebookの物語を書いた著書がバイブルで、毎日寝にだけ帰ってレッドブル飲んで働いてみたいな、アホみたいに青春な時間でした。

教員を辞めるときに密かに決めていたことが、「お金持ちになりたい」ということと「日本でない海外で勝負をする」という、教員だとなかなかできないことの2つで、まずは海外進出を目指して、そのチャンスをずっと伺っていました。色々とチームを立ち上げたあとは、バイヤーに専念をして、本の卸業者や、いまやファミリーに入れてもらった、Good Smile Companyも担当したり、してEC事業の成長にバリバリやっていました。2013年の年末には、一回目の伸び悩みがきて、12月31日にどうやって伸ばすか、何ができるかをホワイトボードに書き、その中の一つに「権利を処理するために海外に拠点を立てる」という物がありました。

気がついたら・・・

海外調査を傍らで準備しながら、機会を待ち、経営陣の一部とも相談しながらプランを立てて、2月中旬に経営会議でのプレゼンがありました。準備は万全だったので、絶対に行けると思っていた反面、冷静に考えると元教員の人間が、「バイヤーやりながら倉庫立てて、マネージャー探して立ち上げて6ヶ月で帰ってきます!」とか言っているので、客観的に数ヶ月かかるなって思ってました笑 が、一時間くらい質問の嵐があって、結局「じゃあ来月からいく?」みたいな展開になって、逆にビビりました。最終的には、5月のMiku Expoがインドネシアであり、その担当でもあったので、それが終わってから渡米だということで引き継ぎしながら、準備をし、7月にAXの取材ついでに物件探しに渡米しました。雷神 Inc. の雲さん、Tinyさんの家に初対面にも関わらず泊めていただき、LAに一週間滞在。そこで見つけた2,000sqft/55坪の倉庫兼オフィスでTokyo Otaku ModeのUS本社を立ち上げることになりました。立ち上げは、数人のメンバーと行い、その中には、出勤初日がUSの立ち上げの天才女子と、鬼と呼ばれる女性や、頭の狂った写真家の原さん(現在は独立して写真家に)がいたり、変態エンジニアのポチ(現在は北海道でなにかしている)と一緒に愉快な立ち上げをしました。現地の最強OtakuのSeanというメンバーも参加してくれて、気がついたら立ち上がっていました。

当時の会社のブログ


2014年9月16日に(今でもこの日は覚えています)US版のWMS(倉庫システム)とECのページをオープンさせて、当日は一個も売れず倉庫内の在庫を見て泣きそうになりましたが、次の日に2件、その次の日に7件と、日に日に増えていきました。ちなみに、喧嘩した親父には2014年の年末にUSに来てもらい、やっていることを見てもらって、そこから近所の飲み屋で自慢の息子だと言っているそうで、なんていい話になっているんだ。という感じです。笑

そこからは怒涛の日々で、2015年の年末まで突っ走って、USだけの年商も、1.5億くらいまで行きました。が、このままだと、どこかで伸びなくなると漠然と思っていた矢先に、Skoshboxという日本のお菓子のサブスクリプションのサービスをやっているオーナーに出会いました。色々と気が合いつつ、相互送客施策などを行い、2016年4月にご縁があって、M&Aというものをすることになりました。教員を辞めて、突っ走って気がついたら、こんな事になってました。


「中田さんは経営陣と仲がいいから。タイミングも良かったし。」

なんだかんだ、サクセスストーリーっぽい感じで見られていたし、自分も順調だと思っていました。細かい苦節はたくさんありましたし、飲み込んだこともありました。この頃のTokyo Otaku Modeは第二期くらいのチャレンジ期に来ていて、色々と新しいチャレンジムードが高かったのですが、個人的には現場から新しいことがでていないなぁとも感じていました。とはいえ、自分がチャレンジする機会が増えてチャンスだとは思っていましたが笑
直接の利害関係もないので、日本にいるメンバーから相談などが来ることもあり、よく「USの立ち上げだって、新しいサービス買収だってやらせてもらえたんだから、やりたいことがあればどんどん提案すべき!」ということを言っていたのを覚えています。
嘘かマコトか、僕は立ち上げ期の最初からチームに入っていたため、経営陣と近いとか、話しやすいから意見が通りやすいとか、全体的に押せ押せムードだったからできたとかそんなお話も耳にしました。
あまり気にもしていなかったのですが、寂しい気持ちになったことは覚えています。会社にいる限り、経営陣が全権を持っているのは当たり前で、決定権を持っている人たちに近づいて知り、情報を共有して、自分のやりたいことをやるのが何が問題なのか。また、そんなことより「自分だってもっとやってやる!中田はUSからどけ!」くらいの勢いがほしいな。とも感じていました。要はそれを自分がどこまでやりたいか、本気で取り組みたいか。そこに尽きるんだと今でも思っています。
必要なら媚びへつらえばいいし、それが嫌ならそこまでやりたいことではないし、自分で始めることだって、できることだってたくさんあると思います。

人に任せるくらいなら。という思い込みの大失敗

とはいえ、全部が全部成功だったわけではありません。きれいに大失敗もしています。いまだからこれに感謝はしていますが、当時はやっぱりしんどかったことも多かったでです。

2016年の夏には、運用コスト最適化のためPortland、オレゴン州に日本語教員以来の舞い戻りをし、倉庫も5倍の 10,000sqft/275坪に拡大し、うまくいっていると錯覚していました。まだまだ行けると思って、全部を担当し、引き続きアホみたいに働いていました。当時は、何でもできると本気で思っていたし、やらないならおれが全部やる!って思っていました。100%これが原因で、色々と無理がたたり、Skoshboxのサービスも日本に移管後たたむことになり、USサイドの経営も伸び悩み、人がきれいに離れていくのがわかりました。日本からメンバーが駐在で追加してもらったときに、再起を提案しましたが、なかなか身動きが取れず、自分のちからのなさをめちゃくちゃ実感しました。そこから、少し糸が切れて、人生でも結婚という転機があり、考える時間が増えました。最終的には、Skoshboxのオーナーで一緒にPortlandに来てくれたメンバーに助けてもらって、最適化や、倉庫移転も全力で尽力してもらって、信用を失ってた僕に真摯に対応してくれて、今でも感謝の思い出いっぱいです。日本からきた駐在のメンバーにも支えてもらい、あの頃がなかったら今の自分はないとはっきり言えるくらい貴重な体験をしました。

最終的には、USのメンバーも減り、再スタートの雰囲気でLAに戻ることになりました。当時は、経営陣にも怒りを感じたこともあったし、「USで頑張ってる俺をだれもみてくれねぇ!」とか相当思ってましたが、結局の所自分のやってきた結果がこれで、自分の力がこれで、今の自分がこれなので、流石に飲み込むことにしました。もちろん経営陣含む、メンバーには、「中田はわるくない」と言い続けてもらっていましたが、結局は会社を存続させられなかったのが結果であり、今でも悔しい思い出の一つです(後悔とは違う)。

戦う場所はアメリカ

そんな思いもあり、色々とやり直し、自分の修行のためにも、Tokyo Otaku Modeのためにも、2019年4月に卒業(何故か卒業とみんな言うカルチャー)することに決め、取引先だったUltra Tokyo Connectionに拾っていただきました。超営業の上司のもとで(彼女は僕を部下と呼ばない笑)5月からゴリゴリと会社の課題解決に専念し、「営業が営業に集中できる環境つくり」を行っています。なんでわざわざアメリカにこだわるのか。という疑問に持っていかれそうになったこともありました。けど、LAに引っ越した2018年の年末から考え続け、アメリカでずっと挑戦することに決めました。

理由は大きく3つ。

1. アメリカが世界で一番お金を持っている
2. 日本のポップカルチャーにおいては、まだまだ戦える余地しかない
3. 何より、助けてくれる方々が増えて、ようやくスタートと感じている

とうことで、これからもアメリカで、よくあるアメリカンドリームを目指して、自分の仕事の人生を賭けていきます。言語はある程度問題なくなってきたので、単純な翻訳から、「文化の翻訳」(最近お気に入りの言葉)にレベルを上げて、日本とアメリカをまずはつなげていきたいと、引き続きTokyo Otaku Modeの頃からの想いを乗せて生きています。新しいことが好きで、つまらないことが嫌いなので、いろいろなところに顔をだし、首をツッコミ、勉強をたくさんさせてもらっています。今年は前回のnoteにも書きましたが、視点をあげ、視野を広げるために、別の業界へのつながりを個人でつくり、仕事にも人生にも還元していきたいと思っています。

お知らせと抱負

などと、書きましたが、4月よりUSのグループ会社に転籍し、物作り、ビジネス作りにフォーカスをしていきます。Tokyo Otaku Modeでは数点企画に携わり、ライセンス処理なども行ってきました。Good Smile Companyのグループである、現地法人で世界を面白くするような物作りにチャレンジさせていただきます。
正直、100%の企画へコミットは経験がないのですが、最強の方々が周りで手助けを(すでに)してくれているので、不安は全くありません!ワクワクが止まりません。ご迷惑をかけながら、結果で返していき、アメリカで超面白い会社にまで成長させていきたいと本気で思っています!

そのためには、自分自身も(体重や筋肉だけじゃなく)成長していろいろなことへの挑戦を続けていきます。今年は、自分でちょっとしたアパレルのブランドもちゃんとやってみようかな。と週末の趣味のちょっとした進化版をこちらのスニーカー好き野郎たちと少しずつ進めているので、また、ときが来たらお知らせしたいと思います。

とにかく今はたくさんの新しい人とコトに囲まれて、すごい充実しています。コロナウイルスで明るくない話題が多いけど、少しでもプラスの力で楽しい人生にしていきます!現地での物作りのご相談、アメリカのビジネスでお困りのこと、アパレルで面白そうなこと、その他何でも面白そうなことがあれば、いつでもご連絡いただければと思います!

来月は、

1. 知っておきたいアメリカと日本の生活の違い
2. アメリカ生活のお金事情(ちょっと生々しくお話します)

などを予定しています。なにか他にも疑問や質問があれば、お気軽にお申し付けください!

サポートいただいた大切なお金は、正直に言いますが、僕のやる気に使わせていただきます。